◎『たまふり』でも説いたが、オンからオフへと移行した際、来た道(オンのプロセス)を意図的に外れないよう注意することが、真のほどけ(レット・オフ)のための必要条件だ。外れないと言っても、意図的に「外そうとしない」という意味であり、オフによる着地点は、結果として、出発点とは異なる。出発する前よりも、さらに「ほどけ」が深まっている。
それは、「行ない(Doing)によっては引き起こせない。何かをすることを繰り返し・積み重ねることを通じては、達成できない。
レット・オフとは、Being(あり方)に属するテクノロジーだからだ。正確には、テクノロジーならざるテクノロジーというべきか。
◎手を裡に向け微粒子レベルで凝集・・・し、それをオフにする。そして、そのオフ感覚の裡に留まり続ける。外へ、一切出ない。オフになり・切り・続ける。
レット・オフの一例だ。
◎レット・オフとは超越のためのわざだ。超越を引き起こす手法だ。
粒子的に凝集した手(粒子の集合体)の、その凝集をオフにする。
すると、手は粒子的に拡散する。広がり、膨らんでいく。
それを、またオフにして任せっぱなしにする。
すると、今度は凝集に転ずる。
こちら(凝集)からあちら(拡散)へ、またその反対へ、と、一切「うわがき」することなく、それ自身の裡を往復する。「往」自身の裡を逆転して「復」となり、「復」の裡を反転され「往」と化す。
◎レット・オフを、自らの全存在感に対してかけることが、瞑想の極意だ。
すると、全世界が引っ繰り返って「ぶっ飛ぶ(全世界がたまふり状態となる)」。
ただし、ことはそれほど簡単じゃない。禅僧は、悟りという同様の境地を求め、命がけで修業するというではないか。
しかり。命を捨ててかかって、初めて達成できることだ。
レット・オフとは、文字通り命を捨てることなのだ。自分の内面に向かって、放ち・捨てる。
命を捨てる。命にしがみついている手を潔く放す。
そういう認知の元でレット・オフを練修すれば、あなたのレット・オフには真剣の如き凄絶美が備わるようになる。
これ、活殺自在のいしずえなり。
◎あるいは、私は気が狂いつつあるのかもしれない。何だか、脳も体も、どんどんとろけて、流動体になっていくような感じがする。感じがするだけでなく、実際、そのように動く。身体運動も思考も、私は流体波紋感覚に基づき運用している。
私の身体と触れ合えば、その人が頑なに拒んで心身を凝固させ、あるいはおびえ・おじけづいて腰を大きく引きでもしてないかぎり、流体波紋感覚と私が呼ぶものが一体どんな感じのものなのか、直ちにその場で体感・体験できる。
すると、その人にも狂気が伝染[うつ]るものらしい。
同じように融け始め、驚きに目をみひらきながら、柔らかくほどけ、波打っていく。悦びの裡に。
狂気というのがこれほどエクスタシーに満ちたものであるなら、四六時中狂っているのも、もしかして悪くないかもしれない。そんな不穏・不埒[ふらち]・不徳な考えすら、フッと抱[いだ]きそうになる。
コトホドサヨウ(事程左様)に、これ(レット・オフ)は気持ちいい。
そして、何より神聖だ。
あなたのレット・オフ(活動と休養のクロスオーバー)に、はっきりした神聖さが伴ってないとしたら、あなたのレット・オフはいまだ初級者レベルを脱してない。
◎私が言うオフは、老子流に言うなら「常のオフにあらざるオフ」だ。
凝集(オン)をレット・オフすれば拡散(オフ)となり、その拡散をレット・オフすれば凝集が自ずから現われてくる。
自らの手の裡にて、レット・オフのみを使い、凝集・拡散の波を、相互反転的に連続して引き起こすことが・・・できるだろうか?
これを、ヒーリング・アーツでは「波紋掌」と呼んでいる。蓮華掌(『奇跡の手 ヒーリング・タッチ』にて紹介)をレット・オフで連続的に連ねていくもの。
波紋掌ができるようになると、レット・オフとはオンの反対物としてのオフではなく、実際にはオンもオフも超越し、オンとオフの源泉となるものである真実が、自らの生理的実感でわかる。
◎−1の効用がわかる人は、かなり頭脳明晰な人といっていい。普通、なかなかわかってもらえない。
−1を使える人は、もっと少ない。
そのマイナス(力抜き)を自らの外へ放つのでなく、内へと転[まろ]ばすことで、マイナス1を平方根的にほどくことができる。これをタオイズムでは還虚といい、修養の最高の境地として尊求された。
外側の世界(宇宙)と同等の拡がりが、自らの内面へと展開されていくこと。それが、−1の平方根感覚/意識だ。
内的認知の集合・連続体。途方もなく豊饒で神秘に満ちた多元性。
私が「超越界」と呼ぶもの。
◎鉄の塊のような停止状態と、さざ波ひとつ立たないまったき静けさの中での水の静止状態との違いを、体感的にあなたは感じ取れるだろうか?
力を入れて一切動くまいとしている状態と、水のようにくつろいで休息に委ね切っている状態。この両者の間を、外側の形を一切変えないようにして、行ったり来たりしてみるといい。
◎人間にとり、リラックスという感覚は、水の感覚と同質のものだ。
私はこの一大真理を、シュノーケリングを通じて海から学んだ。
人体を水とみなし、使うヒーリング・アーツのわざは、水のようにリラックスしたマトリクス(母体、基盤)状態に、意図による様々な波紋を生じさせることで運用される。
これを、無為の為と老子は呼んだ。
<2011.08.27 綿柎開>