Healing Discourse

ヒーリング随感3 第6回 龍宮拳

◎私は、水のように流動的な感覚に基づき、自らのあらゆる動き(思考を含む)を律している。つまり、水を生きている。
 水としての動きの質が恒常的なものとなったなら、人生そのものが流体的に感じられるようになるのも当然かもしれない。
 いわゆる行雲流水[こううんりゅうすい]。雲のように自在に行き、水のように自由に流れるライフスタイル。

◎最近、武術の新たな流儀らしきものを、超意識の次元に秘め隠された叡知の寺院にて、体系的に学び始めた。
 水の体感に基づき運用されるわざが主体であり、本年度の海の巡礼シリーズを契機として超越的に顕われ出始めたものだ。
「龍宮拳」と、たわむれに呼んでいる。
 が、内容は、かなり凄くて面白い。そして、ためになる。
 おそろしげな相手にも平然と立ち向かっていける豪胆力が備わると共に、いかなる苦難に対しても冷静沈着に対処していける闊達[かったつ]自在さが、独特のトレーニングを通じ自然に錬り磨かれていく。
 私がここで述べていることは抽象論ではなく、胆力とは何か、恐れとはなにか、冷静沈着さとは何かについて、龍宮拳は文学的にではなく科学的に説明し、心身一元の立場でもっぱら身体方面より働きかけるプラグマティックな修得法を指し示す。つまり、これこれこうすれば、こういう理屈で、このようになる、という実践プロトコルを、科学のやり方で記述し、人々に伝える。
 龍宮拳は、その名の通り、水と化し、その水を波紋によって使う心身運用法だ。

◎例えば、龍宮拳の基礎稽古の1つとして、ひかがみ(膝の裏)の活性化に関する一連の修法群がある。
 かつて、太極拳を修業した際、膝を深く曲げて腰を極度に落とす中国武術特有の姿勢にて、毎日長時間苦練したものだ。当時、中国武術が若者たちの間で静かなブームとなり、専門誌がいくつも発刊されたほどだったから、同様のトレーニングに励んだ人々はかなりの数に上ったことだろう。そうした人たちの多くが、中年になって膝や腰などに中〜重度の障害を発症し、修業を断念せざるを得なくなったそうだ。
 それは、「ひかがみ」(膝裏)を等閑に付したまま(深く注意を払わず)、膝の表だけを曲げようとし続けた結果だ。正確に曲げるためには、曲げようとするところの、表と裏を知らねばならない。
 ごく当たり前のことだ。が、このことに気づくのに、私は10年以上かかっている。この方面の私の才能がいかに乏しいか、よくおわかりだろう。

◎ひかがみに話を戻す。
 膝を折り曲げた際の膝裏の折れ目が膝裏のどこにあって、どんな角度になっているか、理会(体感と理屈が合致していること)している人は驚くほど少ない。
 皆さん、膝とは脚に直交する真横の線に沿って折れ曲がるものでは・・・ない。
 全然違う角度、方向に折るべきものを、一体いつの間にそういうことになったか、これまでまともに見たことさえない(何せ膝の裏だ)ひかがみの形状を、あなた方の多くは真横(立位時、床に対し)と独り決めしていらっしゃるのではあるまいか?
 その仮想のラインに沿って膝を無理に折ろうとすれば、・・・それはそもそも身体の構造からして無理な話なのだが・・・・他の動物は決してしないことなのだが・・・・自然と仮想との間に強いあつれきが生じ、それが繰り返されれば、凝ってブロック(筋肉、腱、筋膜の慢性緊縮)となり、さらに進めば様々な障害ともなる。
 余談だが、膝そのものの仮想もひどい。大抵の人は、膝の皿を含むそのあたり一帯のひと塊を、「膝」と思い込み、その膝を折るとか伸ばすなどしている。
「そんなご無体[むたい]な」と、体は悲鳴を上げ続ける。

◎ひかがみを通す、と私は呼んでいるのだが、ひかがみに沿って脚の屈伸がなされるようになると、脚の内部を生きた流体金属の如き質感が流動・循環し始める。そうなると、脚というものが非常に活き活きと感じられるようになる。
 2本の棒をつなげたようにこわばって、じゃなく。
 皮膚で包まれた脚の内界にて、有機機械のように正確に、腱やら筋肉やら骨やらが、それぞれ絶妙な関係性を保ちつつ、圧縮⇔伸長したり(腱)、包まれ・運ばれたり(骨)、柔らかく流動したり(筋肉)、する。
 そういう風に身体内面が感じられる状態を、ヒーリング・アーツでは「裡に入る」と呼ぶ。もちろん、いきなり細かく精妙に感じることはできないから、少しずつ段階を追ってトレーニングしていく。
 この「裡に入った」状態を常にキープしながら、膝を曲げ伸ばしせねばならない。膝を曲げて腰を落とした際、脚のいかなる部分であれ、その内面が流動しておらず、ギュッと固まったかたまりとして感じられるようであれば、それは要注意信号だ。
 そんな状態で動く、しかも武術的に激しく動くようなことを長期間継続しては・・・絶対にいけない。それは、何か一時的なかりそめの満足をあなたに与えるかもしれない。が、その代償はとてつもなく高くつく。健康的ではつらつとした老後を、あなたは支払わねばならない。
 やめよ、やめよ。そんな馬鹿げたことは。

◎ひかがみがよく通っていると、不思議なことに「恐怖」が消える。
 自分の中のどこを探しても、恐れ・おびえの影も形もみあたらない。何も感じない、実にスカッと晴れやかな気持ち。自動的に、そんな状態になる。
 膝と恐怖。奇妙な関係だ。
 が、人が恐怖を感じると膝が震えることは、よく知られている。微細な振動のこともあれば、ガタガタ激しく、当人自身が驚くほど振るえることもある。
 龍宮拳のひかがみ通しは、脚の運用について教え導くと共に、恐怖をほどく修法としても機能するようになっている。活殺両面を同時に備えるこうしたトータルな調律を、私は<ヒーリング>と呼んでいる。

◎宮本武蔵は、「観の目を強く、見の目を弱く」と『五輪書』に記している。つまり、見の目を完全に排して観の目オンリーにせよとは言ってない。
 ヒーリング・アーツも同様だ。私がこれまで観の目だけを強調してきたのは、現代社会を生きるほとんどの人が、世界に本来ある色や形を、トータルに観る能力を忘れ去っているからだ。
 スライドショーの1舞(枚)1舞と向き合いつつ、瞬間的に、画面内の何点かに見の目を飛ばし、それらを観の目として統合する。
 あるいは、見の目と観の目を交互に入れ替えて、みえ方、全身の感覚の違いなどを比較する。
 その上で、観の目を保つ努力をする。
 そんな風に、いろいろバリエーションをもたせつつ稽古することが大切だ。

◎かしわ手は常に役立つ。
 帰神フォトを観照する際は、フォトと自分の目のちょうど真ん中で、かしわ手を打ち鳴らす。そこから発した衝撃波(音波)が、フォトと目にちょうど同時に届くように。
 まばたきしたり目を動かしたりしなければ、これはかなり「効く」。
 ちなみに、私のこの言葉を今、読みながら、同じようにかしわ手を打ってごらんなさい。
 言葉一つ一つ、文字一つ一つに込められた生命の力の重さ、厚み、多層性、共時空性・・・などが、ありありとわかるだろう。

◎観ることと関わるもろもろの修法を、強力な魔術の目(イーブルアイ)を持つ女神にちなみ、メドゥーサ修法と呼んでいる。
 メドゥーサ修法は、トルコのディディムにあるアポロン神殿巡礼がきっかけとなって御吾[みあれ](尊いものが示現すること)し始めた一連の修法群だ。
 豊穰の大地母神・メドゥーサより授けられし術[わざ]。
 ただし、これまで折りに触れ述べてきた通り、自分の皮膚の外側に存在する人間じみた外在神を、私は一切信じない。
 外側にある(ように見える)ものはすべて、裡にあるもののシンボルに過ぎない。
 だから私は、神明を舞う。真の舞において、動きはすべて身体内にあって流動・循環する。その時、舞手と舞は、完全に一つだ。舞は、舞手の裡に完全に納まっている。
 あなたが、ご自身の外側の空間に動きや軌跡を感じるのであれば、あなたの「それ」は、私が舞と呼ぶ状態とは別の何ものかだ。

◎豊穰と死を司る蛇の女神をいつき祀[まつ]る修法を、一手。

 <フォーミュラ>
 両目の間のナジオンにヒーリング・タッチしながら、「観る」。

 ナジオンについては、ヒーリング・ディスコース『太陽と月の結婚』もご参照いただきたい。両目の間、鼻のつけ根のへこみの部分、いわゆる鼻根部。
 そこに指先の腹でふわりとタッチし、いつまで待ってみても視覚にまったく変化が起きないようであれば、あなたのそのタッチは、私たちが主張するヒーリング・タッチとはおそらく異なるものだろう。
 ヒーリング・タッチでは、数秒〜数十秒程度で、世界のみえ方が変わってくる。体験者は皆、驚くべき立体感や鮮やかさ、透明感・透徹感、生々しさ・リアルさ、などを報告している。
 写真を観ながらナジオンにヒーリング・タッチする・・・と、その現場・その空間に、自分が実際に身を置いているような、生々しい臨場感が発生する。
 そうならないとしたら、あるいは、あなたのナジオンがあまりにも硬く閉じていて、ちょっとしたタッチくらいではそこそのものの角度、形を感じられないほど感覚が鈍磨しているのかもしれない。あるいは、写真の方にばかり意識が行ってしまって、ナジオンへの注意が曖昧[あいまい]になっているのかもしれない。
 お気づきだろうか? ナジオンは、上下においては谷のところだが、左右では山の頂だ。
 ぽかんとしているあなたは、ご自分のナジオンやその周辺と実際に触れ合って、上下及び左右へとていねいに形に沿って撫でることを繰り返し、その形[フォルム]を確認してみることだ。
 ここ(ナジオンとその周辺の形)に、心眼(第3の目)覚醒の要訣が秘められている。簡単にいえば、そこの形をそこそのもので(ということは表に表われているのとは正反対の形で:例えば表から見て飛び出ているものは、内から観れば引っ込んでいる。外の山は内の谷であり、外で低いところが内では即・高くなる)、感じる。そうすれば、ナジオンのところで頭骨が分かれる。すると、心眼が開き始める。
 物凄い集中力が、ナジオンの奥の方から発生するのがわかるだろう。あんまり偏ってこればかり練修すると、脳溢血を起こしたり、気が狂ったりすることもあるらしい。ちょっとやってみて、病みつきになりそうに感じる人は、くれぐれもご注意を。ナジオンへの働きかけの前後に、腰や腹(特に下腹)へのヒーリング・タッチを行なうと、全体的バランスを保つ上で卓効がある。これは、他の修法においても同様だ。

第4回で仮想身体について述べた。
 ある仮想を、一つの方向からある程度ほどいたとしても、それとは別の方向にも仮想が伏在していてそちらはまったく手つかずのまま、そういうことが実際に起こり得る。
 例えば、手首左右(内外)の仮想を、尺骨と橈骨の茎状突起にヒーリング・タッチすることで、破ることができる。それによりリアルな手首が顕われてくる。そして、その本当の正確な(自然な)位置・角度は、これまで自分がそうであると思い込み、信じ込んでいたところの手首の角度とは、通常かなり異なっている。
グノーティ・セアウトン』で説いたことだが、それを充分練修し、「まあまあできるようになった」と感じている(信じている)人は、それでは手首の厚み(幅ではなく)の方向から、同様に意識化していくとどうなるか、自らの身体をもって、今すぐ直ちに、実験してみるといい。
 悲鳴があがるはずだ。標準的な感性がある人なら。

◎先日、マレーシア領ボルネオに、妻と共に巡礼に行ってきた。ボルネオ巡礼は、今年で連続3度目になる。
 今回の旅は、少しキツイものだった。
 シパダン探訪の基地となるマブール島に着いて早々、早速シュノーケル巡礼を楽しく開始したそのファースト・ダイブで、私の水中ハウジング(カメラを包んで水中で保護する覆い)が浸水し、中のカメラがたちまちシャットダウンした。注)
 マブール島へのスピードボートが激しく揺れ、船ごとガタンゴトンと強烈に叩かれ続けたことで、ハウジングのどこかに緩みが生じたものらしい。   
 というわけで、巡礼地に到着早々、私は帰神撮影のためのツールを失った。

◎だが、妻のカメラがまだある。陸上用と水中用の2台も。
 水中用は、今回の巡礼のため妻が新たに購入したミラーレス一眼だ。
 初めて手にするカメラで、一体どんな作品を得られるか? 不利な条件にも関わらず、さらなる芸術的熟達を遂げることができるか?「巡礼」の名に恥じぬ、生命[いのち]への祈りの態度・姿勢を、シパダン滞在中、貫通できるか? いかなる状況をも、たまふりを起こし、楽しむことができるか?
 そんな風に、夫婦そろって自らに問いかけつつ、ヒーリング・アーツ流で旅していった。いわゆるヒーリング・トリップだ。

◎このヒーリング・トリップの霊的土産(帰神フォト・スライドショー&ライナーノーツ)は、ウェブギャラリーにてまもなくシリーズ第1作を発表予定。
 従来よりも画面サイズを拡げ、写真に込められたマナの力をより強く、深く、観照者が受けられるようにした。つまり、より「効く」ようになった。
 審神[さにわ]の意気をもって、どうぞご観照あれ。
 ヒーリング・フォトグラフ道が啓発されてよりおよそ1年、その間の努力精進の成果を2人して徹底して注ぎ込み、神明とりわけ女神への捧げ物とすべく、この新たな作品を創造した。感謝と歓びに満たされて笑い踊りながら。

<2011.09.13 鶺鴒鳴(せきれいなく)>

注:海水に浸かったカメラは修理不能、よってセレベス海で水葬してきた。高価なカメラよりもさらに高価なハウジングと一緒に。

※2011年度 海の巡礼シリーズ:関連リンク
◎Healing Photograph Gallery1『エルニド巡礼記 @フィリピン』/『パラオ巡礼:2011』/『ボルネオ巡礼:2011
◎Healing Photograph Article『エルニド巡礼記・余話
◎ヒーリング・ディスコース『レインボーズ・エンド パラオ巡礼:2011』/『ヒーリング随感3』第3回第8回/『ヒーリング随感4』第21回
◎ヒーリング・ダイアリー『ヒーリング・ダイアリー4