◎これまでマレーシアで幸運な目にばかり遭ってきた私に、ついにバッド・ラック(不運)が大挙して襲いかかり始めたか。・・・そんな風にさえ思えるほどの不快・不便な出来事が、このたびのボルネオ巡礼では連続した。
前回ご報告した、私のカメラ水没事件に引き続き。
◎マブール島で滞在した水上リゾートでは、2年前の初訪問時には考えられなかったような、ダニや蚊の猛攻に苦しめられた。夫婦そろって、全身百ヶ所あまりをやられたろうか。
強い痒みがマレーシア滞在中ずっと断続。が、面白いことに、日程を繰り上げて早々に帰国した途端、スッと治まってそれ以来再発してない。
◎ボルネオはどんどん変わっていきつつある。
2年前、ボルネオの玄関口・コタキナバルを初めて訪れた際に感激した「古き良きマレーシア」の感触は、この街ではもはやあまり感じられなくなっていた。驚くべき変わりようだ。
外的な変化だけではない。人々それ自体が、我が目を疑うほど急激に、変わっていきつつある。
例えば、今回の旅の間、人込みの中で誰かとちょっと体が触れ合ったりした、そのたびごとに、何と諸君、ていねいに・にこやかに「謝られ」てしまった!
前は大抵にらまれるか、無視されるかだったのだ。この変化は凄い。
◎妻によれば、女性たちのトゥドゥン(頭をすっぽり覆い隠すイスラム教由来のスカーフ)姿が、街頭からめっきり減ったそうだ。そう言われてみれば、そうかもしれない。
毎回訪れるKK(Kota Kinabalu=コタキナバル)のショッピングモールで、美容院が新しく一気にたくさん出現していたのにも驚かされた。
ガラス張りのルームの中で堂々とみぐしをさらけ出す、トゥドゥンを脱ぎ捨てた女たち。つい最近まで、女性用シャンプーのコマーシャルでさえ髪をあらわにすることはご法度[はっと]だったのに。
◎人々の価値観がそれだけ急激に変わる時と場所[ところ]では、歪んだ心がたくさん、ポップアップと生まれ出てくるのも、あるいは当然なのかもしれない。
「これはメーター・タクシーです。この車の運転手はハグル(値段交渉)いたしません。不正行為がありましたら以下の◎◎までご一報ください」。そのように明記された大きなステッカーが、どのタクシーのドアにも必ず貼ってあるのだが、その車のドライバーが平然と「ハグル」なさるのである。
メーターを使えば6リンギッ(約150円)で行けるところを、道が混んでいるとか一方通行とか、あれこれわけのわからん理屈をこね立て、20リンギッ要求する。特にクアラルンプール滞在中、何度も何度もやられた(コタキナバルのタクシーは、今のところおおむね良心的といえる)。
日本人には、こういう体験が、おそらく一番「応える」のではなかろうか? タクシー運転手がメーターを無視し、不当な言い値を押しつけてくるなど、現在の我が国ではまったく考えられないことだ。
その考えられないことを実際に経験してみるのは、かなり「非日常」的で面白かったりする。犯罪現場に立ち会うようなスリリングさもある。
が、何度も何度も続くと、さすがにうんざりしてくる。
◎パラオで鍛えられて強い海の女になっているはずの妻も、セレベス海の烈しい揺れと激しい叩きつけに長時間さらされ、何度も酔った。
それでも、海の中を撮り続けた。楽しみつつ。
◎シパダン・マブール巡礼を完遂し、やれやれいざ骨休め(これは文字通りの意味。骨を休める)と、マブール島よりサンダル履きのまま向かったクアラルンプール市内のホテルにて、今度は新手のトラブルが私たちを待ち受けていた。
スイートルームとは名ばかりで、建物自体の構造的欠陥による異常音で眠れず、クレームをつけてものろのろしてキチンと対応しない。獅子の紋章をいただく、国際的に有名な5つ星ホテルとはとうてい信じられない。これは「この国にこれ以上長く留まるべからず」との天の警告に相違あるまいと判断し、帰国を早めることを決意した。3日後にはマレーシアを発つことになっていたが、その3日を待たず、ビジネスクラスのチケットを新しく2枚購入、即日かの地を離れた。
帰国翌日、件[くだん]のホテル支配人より、私の元に電子メールが届いて曰く、「・・・次回クアラルンプールにお越しの節は、是非当ホテルにお迎えいたしたいと存じます。その折りには、私自ら諸手続きに当たらせていただき、万事遺漏なきよう取り計らいます」「どうか私の謝罪をお受け入れください」「云々、云々」・・・・。
◎深夜クアラルンプールを発ち、翌早朝、関西国際空港から留守宅に電話してみれば、わが家の愛猫マナの様子が今朝からおかしい、何も食べようとしない、との留守番の友人の第一報だ。
すわ、急いで帰国「させられた」理由[わけ]はこれか、と妻と共に家路を急いだ。
◎愛猫の病気は、私のヒーリングで、たちまち回復。
かたずを呑んで一部始終を見守っていた友人たちもアッと驚いたようだ。
その翌日、プライベートBBSに、友人が以下のように投稿している(当人の許可を得て転載)。
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昨日の早朝から、猫のマナの調子が突然悪くなりました。口の中を痛がり、しきりに気にしているようで、どうしたものかと調べても、原因がわかりません。私たちがヒーリングを行なうと少しは落ち着いてきたものの、食欲がなく、ずっと横になって寝ていました。病院に連れて行く必要があると思い、診療の予約をした矢先、先生からすでに日本にご帰国されたのとのお電話がありました。
先生がご帰宅されるとすぐさま、ヒーリングを執り行なわれたのですが、その後の回復は凄いものがありました。つい先ほどまでぐったりしていて、いつもの食欲旺盛なマナとは思われない様子であったのが、少しの間に元気に食事を欲しがり始めていました。普通でしたら、どう考えても何日も長引きそうな症状であったにも関わらず、先生のヒーリングの威力に大変驚いた次第です。
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◎これまで述べてきた様々な不運を補ってあまりある素晴らしい霊的叡知とわざを、今、私は次々と得つつある。
ボルネオ巡礼より帰還して以来、さらなる新しい修法が、続々と生まれ出ている。
冗談みたいだけど凄い龍宮拳といい、ヒーリング・アーツそれ自体が、今、急激な変容を遂げ始めたようにも思える。
これまで私と何度も何度も組み合い、さまざまな術をかけられてきた友人たちにとってもまったく未体験の、まったく新たな体感に基づくわざ。
そういうわざが現実に、しかも次々顕われ出てくるのだから、まさに驚異というしかない。
こういうこともできるようになるのかと自分自身があっと驚く体験が、尽きることなく連続する。
例えば「肩の認知の書き換え法」。
これは、肩の余分な力みを根本的にリセットするわざだが、「我流を調律」する上において、凄まじいほどの効果を発揮する。肩と我[が]の間には、いまだ一般には知られざる相関関係があるのだ。
◎武道をやっている人が上記のマナを知れば、<二階級特進>ものの熟達が一気に起こるのではないか?
留守番の友人ら(武術のシロウト)にちょっと教えてみたら、蹴りを放ちながら誰かに強く突き飛ばされても、平然としてびくともしないようになった。肩の余分な力みをリサイクル(再統合)するだけで、こういうことが自然にできるようになる。
また、大東流合気柔術の肩合気(肩で相手の重心を制し、投げ倒す高度なわざ)を、やや不器用ながら(何せ初めていきなりやらされたのだ)、それなりに使いこなせるようにもなった。男も女もできた。
◎何か、特殊な技術を授けたわけじゃない。
ただ、肩の認知を神経的に書き換えるよう、導いていっただけだ。タッチ感覚/意識を使って。
すると、瞬時に「足が床に吸い付く」ようになる。にもかかわらず、満身軽やかだ。自由自在に、流れるように動くことができる。何をやっても、全身があますところなく使われる。
何をするのでも、どんな風に動いたらいいか、身体自身が知っている。
こういう状態が、肩の仮想離脱により、直ちに起こってくる。
◎ヒーリング・セックスの奥義も、マナとして示現しつつある。
一例をあげるなら、<フタギ>のわざ。日本人(そしておそらく世界中の人全部)にとり、セックスの神話次元における根本的行為とは何か、と問うこと。
このフタギのわざを「執り行なう」と、ビリビリ・うっとり・精妙にしびれながら、カップルで「イキっぱなし」になる。皮も肉も骨も腱も、内臓も脳も神経も血管も、それぞれ独自の波長でエクスタシーに振るえ、それらが重なり響きあって、超宇宙的悦楽の大海に2人は呑み込まれる。極めて明晰な意識を保ちつつ。
私たちの実験によれば、こうした状態(ヒーリング・オーガズム)を1時間、あるいはそれ以上、持続させることはそれほど難しくない。
この力は、人々を若々しくさせ、活気と美を与える。それは創造の原動力だ。それはまた、強い祈りの力ともなる。
ヒーリング・セックス(ミトのまぐわい)の極意は、『古事記』国生みの段に明記されている通り、成り成りて成り合はざる一處[ひとところ]を、成り成りて成り余れる一處にてさし塞[ふた]ぐことにある。
この意を正しく理会し、実践している日本人は、非常に少ないかもしれない。とすると、私たちは、神話(ユングのいわゆる集合的無意識)の深いレベルで、セックスを間違えていることになる。
これは、かなりまずい事態かもしれない。
<2011.09.20 玄鳥去>