◎肥田式強健術のような<型>には、「我、かく鍛えり」とでもいった、作者のある種の情念の如きものが、身体メッセージとして込められている。
いわば、型のスピリットともいうべきもの。創始者が、自らの身体を通じ、探求し・獲得していったプロセス。
それが、ある特有の身体運用法(型)として、実践者自らの身体内で心身一元的に感じられるよう、できている。型を通じ、私たちは偉大な先人のスピリットを体感できる。
そのような型を、私は芸術とみなす。
◎肥田春充とはおそらく、人類の未来の在り方の、先がけだ。
あるいは、原始の人類がいかなるものであったかを示す、一種の先祖返り現象なのかもしれない。
(個人的に)30年間ずっと実践・研究を続けてきて、強健術(神勇禅[しんゆうぜん]とヒーリング・ネットワークでは呼んでいる)の奥深さにはずっと驚かされっぱなしだ。
私は今でも、神勇禅に関する新たな発見を、ほぼ毎日のように得ている。
神勇禅が高度すぎるのか、私があまりに鈍いのか、たぶん両方だと思うが、とにかくこれは凄いことだ。
ゆえに、私には傲[おご]り高ぶっている暇などまったくない。いくら極めても、まだまだ先がある。やっと頂上を極めたと思ったら、その上には無窮[むきゅう]の天が広がっている。
うれしい絶望。
◎妻の新曲『エルニド』が完成した。
初夏に巡礼したフィリピンのエルニドを讃える奉納作品だ。エルニド巡礼のマナ土産は、ヒーリング・フォトグラフのギャラリーにて分かち合っている(スライドショー2-13~2-19)。
新曲『エルニド』については、思うところあって、従来のようなCD形式での発表予定はない。そのあたりの「事情」については、妻の『ヒーリング・ダイアリー』第5回をご参照いただきたい。
◎前作『キナバタンガン』(未公開)同様、通常よくある、環境録音と創作曲とを重ね合わせる手法に敢えて倣[なら]いつつ、ヒーリング・アーツ流で取り組めばどうなるか、果敢にチャレンジしていった成果が、『エルニド』だ。
環境音だけに注意を集中して聴き、次に創作曲を聴き、両者を繰り返してみれば、2つの音世界が、単に重なっている(プラス)のではなく、かけ合わされている(×)ことがわかる。
『レインボーズ・エンド』第6回のスライドショー17にて、同様の手法による妻のヒーリング楽曲がクロスオーバーされているから、スライドショーと音楽の両方同時に響かせるつもりでかしわ手を活用しつつ、是非ご確認いただきたい。これは、深いヒーリング作用をもたらす。
◎環境音のエッセンスをつかみ、それにぶつける形で巡礼の体験のエッセンスを音楽的に表現し、歌垣的に掛け合わせていく。
それにより、従来のいわゆるヒーリング・ミュージックが決定的に欠いていた有機と無機の融合・統合が、見事に果たされることとなった。
一歩間違えば退屈極まりないものと化してしまう危険を敢えて冒し、巷[ちまた]のヒーリング・ミュージックと同じ手法を自分自身へのチャレンジとして使い、その逆境をかえって活かして、自家薬籠中のものと換えてしまう。
そういうふてぶてしいまでのたくましさ、生命力、生活力も、ヒーリング・アーツがもたらす恩恵の一つだ。
◎手首内側のメインの折れ線(手首を折るとしわができるところ)の左右両端が、手首の表と裏の境目だ。
自分の手首と触れ合って確かめながら、手首を折ったり伸ばしたり、しているうちに、以前『グノーティ・セアウトン』にて述べた茎状突起のあたりとわかるだろう。
その2点を結ぶ皮膚面上の線の一方が「手首の表」に属し、もう一方が「手首の裏」に属する。このラインを、表と裏は互いに一切越境してはならない。元来、越境など起こり得るはずがない。人体の構造からして。
その起こり得るはずのないことが、あたかも起こるかのように、起こせるかのように、錯覚・盲信した状態が、仮想身体だ。
◎そして、よろしいだろうか、その茎状突起のところは、「掌」と「甲」の境目でもある。
・・・・・・
まだおわかりにならない?
あなたは、ご自身の「てのひら」を、これまでどんなもので、手のどこにあるとお考えだったろうか? どのようなものとして、使って来られたろうか?
もしかして、平ら、あるいはそれに近いものが、手の表面(あるいは底)に張り付いている、その程度の、改めて冷静に考えてみればあり得ない、「認知」だったのではあるまいか?
◎そうした不条理な認知の積み重ねこそ、認知症への着実な道と知るべきだ。
◎ペンで、掌と甲(手の裏表)の境目をマーキングしてみるといい。折り曲げた時にできるしわ(折れ線)の端っこを、順につなげていくのだ。
◎掌とは、かくも立体的なものなのか。
この真理を理会すれば、必ずやそのような感慨が、アッと起こるだろう。一瞬にして。
豁然[かつぜん]として新世界が開ける状態を実体験できる。・・・これは凄いことだ。途方もなく。
◎その新しい手でヒーリング・タッチを練修すると、直ちにバージョンアップが起こる。
同時に、新しい疑問もたくさん湧いて出るだろう。
例えば、爪のあたりでは手の表裏はどう別れるのか、など。
◎エルニドから始めた海中帰神撮影を、パラオ、ボルネオと引き継いでいき、本年度の一連の海の巡礼を完遂した。
ボルネオでは、前回述べた通りあれこれトラブルも少なくなかったが、振り返ってみれば良い思い出ばかりだ。
楽園に行ってきた。いいことづくめだった。霊的なみやげもたくさんいただいた。
そんな風に感じている。妻も同様らしい。
◎一体、何のためにそんなことをやっておるのか?
誰かに頼まれたのか? あるいは命じられたのか?
何らかの義務感からか? 何かいいことがあるのか? それで儲かるのか? 損しているのか? 一体何が起きているのか?
遊びか? 仕事か? 趣味か?
・・・・・・惟神[かんながら]の道(生き方)、そのようにお答えするしかない。
私たちは、生き方そのものをヒーリングの芸術活動と化す人生を選択した。
私たちが芸術作品として創り出すすべては、即「奉納」だ。
すなわち、神々(とりわけ女神)への捧げものだ。
私たち自身が、サクリファイス(捧げ物)だ。
「血まみれでにっこり笑って立つ」(岡本太郎)こと。
いにしえの宗教者たちが、自ら(エゴ)を神明へと捧げ尽くしながら、救済や安心立命を願い求めたように。
ただ、捧げて(レット・オフ)、委ねて(レット・オフ)、任せ尽くす(レット・オフ)。
ちなみに、惟神を一方通行の流れのようなものと誤解している人が多いようだが、正確には「球状」だ。
◎エゴ(自我)を捧げるだなんて、何だか難しそうだが、レット・オフを応用すれば比較的簡単にできる。
エゴを直接、ダイレクトに手放すことはとても難しい。現代人の多くにとり、ほとんど不可能に近いかもしれない。
が、エゴにしがみつくことなら、いつもやっていることだから実に簡単にできる。
「自分の」「自分が」「自分に」・・・それら諸々の「自分」という感覚が、エゴ(自我)だ。
それにしっかりしがみつきながら、執着しながら、その「しがみつく」という言葉が身体のいかなる状態とリンクしているかを探し出し、それを強調しておいて、強調した分だけを手放す。
すると、エゴを「ちょっぴり」解除する波紋が発生するが、その身体外への表現を禁ずる(静かに動かない。身も心も)ことで、身体内面に解除波紋が反転的に浸透していき、エゴの溶解が起こり始める、という次第。
これはかなり気持ちいい。超宇宙温泉、とでもいったところか。
エゴこそ人のあらゆる苦しみの原因なり、とする仏陀の主張が、にわかに現実味を帯びて思い起こされたりもする。
ところが、その極楽温泉郷が、エゴが未熟な人の目には地獄谷と映るらしい。
だから、レット・オフをマインドに使う際は、よくよくご注意を。正しく執り行なうと非常に「効く」ので。
<2011.09.25 雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)>
※2011年度 海の巡礼シリーズ:関連リンク
◎Healing Photograph Gallery1『エルニド巡礼記 @フィリピン』/『パラオ巡礼:2011』/『ボルネオ巡礼:2011』
◎Healing Photograph Article『エルニド巡礼記・余話』
◎ヒーリング・ディスコース『レインボーズ・エンド パラオ巡礼:2011』/『ヒーリング随感3』第3回、第6回/『ヒーリング随感4』第21回
◎ヒーリング・ダイアリー『ヒーリング・ダイアリー4』