◎これはご存知だったろうか?
<フォーミュラ>
手の中手骨は、中立的に使う。
中手骨については、その他の手の骨と共に、ディスコース『ドラゴンズ・ボディ』で説いたことがある。動的解剖学に関心がおありの方は、是非ご参照いただきたい。第2回に手の骨格模型の写真も付しておいた。
◎あの中手骨のあたりに、掌の中心たる労宮[ろうきゅう]がある(労宮は掌の皮膚面にあるツボ)。掌の中心だ。とすれば、中手骨への認知も、それ(労宮)と関係づける必要があるのではないか?
そのように自らに問いかけるのが、ヒーリング・アーツ流だ。
中手骨を、あなたは手根骨(手首側)から(指先側へと)「生え出ている」ものと、これまで長年にわたりかたくなに思い込んできたのではないか? そう信じていた、感じていた、のではあるまいか?
◎ところが、私の中手骨は、まったく違う。
それは手の真ん中にあって、常にニュートラルだ。
それから、私の中手骨は、私の意に従い、ゆっくり伸縮する。私の手と柔らかく触れ合えば、よほど心身が硬直している人以外、誰でも感じ取れる。あなたの親指を私の労宮、人差し指・中指・薬指を揃えて私の中指・中手骨に甲側から添え、私の手を挟むようにする。そこから私が中指・中手骨を伸ばせば、揃えていたあなたの人差し指・中指・薬指が離れるから、確かに伸びているのだとわかる。
共感力が高い人なら、私の中手骨の伸縮が自身の手にダイレクトに響いてきて、共振し始めるかもしれない。そういうことは、私の経験によればしばしばある。
◎中手骨を、指先側、手首側、いずれにも偏らせないで手を使う。
「そんなこと」をして(ができて)何がいいのか・・・って?
・・・・そりゃあ君、まず手があら不思議・滑らか艶[つや]やか自在にゆらめくようになるし、そうなればマインドはクリアー、パラオ晴れ。人の2倍も3倍も、「目端[めはし]が利[き]く」ようになる。
すると、何をやっても、格段の熟達を遂げてしまう。どんな方面でも、「才能がある」といわれてしまう。
手にあるしわ(手相)が人の一生を表わすとされたり、手に全身各所との対応部があるといわれたり、あるいは指と脳の密接な関係など、手は確かに全身を映す鏡といえる。逆に、その映す鏡自体の認知構造を神経的に書き換えることで(これをニューロ・ディライティングという)、全身へと直ちに影響を及ぼすことができる。
◎手が、波打つように自由に動くようになったら、全身が直ちに波と化す。これは、私が最近「学び」始めた龍宮拳の基本だ。いわゆる波紋掌。
これは凄い。
この波紋の手でべたべた、どこでもいいから触れ合っていってやれば、胸ぐらをつかんできた手であれ、殴りかかってきた腕であれ、取っ組み合っている相手の背中であれ、あるいは蹴ってきた脚(足、ではなく)であれ、あらあら不可思議アナカシコ、相手も波紋と化してしまう。
そして、術者の全身が巧みに自然に協調し、「その場に最もふさわしいこと」を、「最もふさわしいタイミング(一瞬先を知らぬ)」で「為し(成し)」ていく。相手は期せずして、まったき調和の裡へと超次元的に投げ飛ばされる。
生命の舞としての、一期一会[いちごいちえ]の交錯・爆発。いわゆる、「動けば術[わざ]となる」の境地。痺れるような美と快感。
そういう生命の舞を武術的に舞う道が、龍宮拳だ。
◎上記の波紋掌を心身調律へと応用すれば、ディープないたわりとねぎらいの感覚/意識が発生する。
私が波紋掌で背中にヒーリング・タッチし、柔らかく円[まる]く、途切れることなく、まんべんなく、形に忠実に沿って(相手のすべてをあるがままに認め・受け容れながら)、撫でさする・・・・と、多くの人が、胸の奥底から湧き溢れる感・動を味わうようだ。
病院で鬱病と診断されて抗うつ剤の使用を始めたある人は、ヒーリング・アーツ伝授会に参加して私に波紋掌で硬く分厚い背中をなで回されたら、やがてハラの底から笑い出し、伝授会終了時にはスッカリ晴れやかな顔つきになっていた。その後、薬も要らなくなったそうだ。
状況は違えど、こうした諸々のクライシス(人生の危機的状況)のヒーリングが、私の周りでこれまで数多く起こってきた。私自身は治療家とかヒーラーなどではないのだが。
◎手の甲からアプローチすると、ずらりと並んだ中手骨を触知しやすい。
もう一方の手でヒーリング・タッチしながら、指を握ったり開いたり、を繰り返す。
その、中手骨のところが、いつも(手の)真ん中になるように。
つまり、指だけが伸縮するのでなく、中手骨の反対側(手首側)と相対的に開閉する。
◎元来、手首から先だけが動いて手が開閉する、など、人体の構造からしてあり得ない話だ。
が、大抵の人はそのように仮想している。その通りに実行しようとする。
どうやら、私たちは「む〜す〜ん〜で〜 ひ〜ら〜い〜て〜」のところで、もう間違ってしまったようだ。否、間違わされてしまった。
あなたの仮想はおそらく、それを最初に実際にやってみせた大人から、目を通じ感染させられたものだろう。自分が、どこで、どのようにして、それ(ものを実際に持つなどとは無関係に、抽象的に手を開いたり握ったりすること)を教わったか、実行を強制されたか、あなたは覚えていらっしゃるだろうか?
どう考えても、責任は小さな子供ではなく大きな大人の方に、ある。
◎私は責任転嫁しようとしているのでなく、その大きな大人としての責任を、今、果たしつつあるところだ。
心身統合の秘密の鍵を解明し、それを現代にふさわしい独自の様式で表現していくことを通じて。
◎手を開くことの反対を「むすぶ」と表現しているところも重要だ。原始時代、(紐などを)「結ぶ」ことを初めて発明した者こそ、最初のヒーリング・アーティストだったのではないかと、私は思う。
◎合掌して練修すればもっと理会が深まるだろう。
手を合わせ、左右の中手骨同士を軽く押しつけ合って、上下へ同時に、同量、引き伸ばそうとしてみなさい。
カーブしているフレキシブルな骨なので、(生きた)中指骨は実際に伸び縮みする。
それが根元(手首側)から指先側へと「生え伸びている」という認知を、それ自体伸縮する手の中心帯としての認知に切り替える。
つまり、中手骨の上下・・指と手根骨・・を、同時に引き伸ばすようにする。引き伸ばす、というよりは、裡より押し広げる、という方が正確かもしれない。
◎逆に、ギュッと中手骨を、圧縮することもできる。
どちらに最初に取り組んでもいい。一方をレット・オフすれば、自ずからもう一方が顕[あら]われる。
ちなみに、ヒーリング・ネットワークでは同一次元の移動(あちらからこちらへ、など)の「現われる」に対し、次元間移動あるいは超越的実現を「顕われる」と表記して区別する。
このように、通常とはちょっと違う言葉づかいを、読感に引っ掛かりが生じることを敢えていとわず、岡本太郎のいわゆる「嫌われても構わない」式で、ヒーリング・ネットワークでは意識的に採用しているが、それは、人が生きる上において特に重要な言葉たちを、先入観・偏見・固定概念のくびきから解き放たんがためだ。
私は、言葉の破壊と再生を楽しんでいる。
◎先ほど、近所のデパートに買い物に出かけた折り、「何かの言葉を否定することは皆するけど、それがただの否定に終わるだけじゃダメなんだよねえ」と、妻が言った。
その通りである。
私は、言葉の一般的な使い方を否定しつつ、同時に、それに代わる新たな言葉づかいをハッキリ示してきた。常に。
例えば、なぜ、「みる」を一般的な「見る」でなく「観る」と書くのか?
見ることとは違う「みる」ことが、他にあるのか?
なぜ、技[わざ]ではなく術[わざ]なのか? 藝としての「わざ」もあるようだが、それらの関係はどうなっているのか?
そうしたことについて、これまで何度も繰り返し執拗[しつよう]に述べ記してきた。
これが、私のいう言葉の破壊と再生だ。言葉遊びだ。
◎中手骨を圧縮することで霊動を引き起こすのが、太霊道の霊子顕動法だ。私の経験によれば、中指中手骨の圧縮により発生する振るえを元にする時、最大の顕動が、最も楽に・自然に、起こる。
ただし、太霊道では掌の中央に入る力はごく軽いもので良い、と説かれているので、中指骨圧縮の実験は、弱めの力から始めるのが無難だろう。それくらい凄い勢いが、中手骨を基点にして出る。
大正〜昭和初期の霊術全盛期は、無理な呼吸法や気合の修練がたたって脳溢血に倒れる霊術家が続出したことにより、すみやかに終熄を迎えた。
「いくら凄いことができるようになっても、命と引き換えじゃあ・・・」というわけだ。
田中守平も45歳の若さでこの世を去った。死因は「循環器系の発作(一説に脳溢血)」であったという。
強力に心身を統一しようと図るメソッドを実践中の人々に対しては、先人たちの事例に鑑[かんが]み、常に「中心」を念頭に置き、全体のバランスを取りつつ中庸の道を進むことを、強くお勧めする。
◎ところで、そこのあなた。自分の甲と熱心に触れ合って感激の面持[おもも]ちのあなた。その甲は・・・・平らなものではありませんよ。
丸みを帯びておりますよ。幾何学的に均一な形ではありませんよ。
すでにお気づきでしたか?
◎上記の手(中手骨)の原理を、足にも応用することについては如何[いかが]ですか?
足の甲の形(角度)だけでも「凄い」ですよ。
◎手についても足についても、もっといっぱいあれこれ書きたいが、キリがないので、このあたりでコマンド・オフ。
<2011.10.06 水始涸[みずはじめてかれる]>