◎龍宮館にサンルームを造って蛇を飼おうか、と妻と話している。
ヒーリング・フォトグラフの要をなすメドゥーサ修法(観の目養成法)を始めとして、蛇女神メドゥーサにはこれまでずっと大変お世話になりっぱなしなのだから、古代の女神文明(かつて神は女だった!)においてしばしば女神の象徴とみなされた蛇を祀り飼育することは、ヒーリング・アーツ流の女神礼拝となり得るはずだ。私たち夫婦が女神崇拝者であることは、これまで折りに触れ述べてきたことだ。
宗教組織と関わりのない、宗教性の本質[エッセンス]における女神崇拝について、私は述べている。例えば老子のごとく、宇宙の女性的なる質を讃える生き方。
それに、蛇とヒーリング・タッチしたら、凄い術[わざ]が御吾[みあれ]してきそうではないか。
淫祠邪教のイメージも、より一層強化されようというものだ。
インシ結構。ジャ教結構。この際、蛇教[じゃきょう]というのを新たに創ってはどうか?
◎メドゥーサ修法。
<フォーミュラ>
目の高さで世界を天地に別けよ。
解題
熱鍼法創始者にして「東洋医学の革命児」、平田内蔵吉は、「両目の中間が顔の中心である」と述べている。
私も、その意見に全面的に賛同する。
両目の中心とは、ナジオンだ。ディスコース『太陽と月の結婚』でも説いた。
自分自身を鏡で観察してみたまえ。
正面から観ると、ちょうど両目(瞳孔)の真ん中を結んだ線が、ナジオン(鼻根部のへこんだところ)と交差しているだろう?
極意解説
ということは、あなたが観ている世界の、上下の真ん中が、ナジオンということになる。そこから上はあなたの目の上半分が、そこから下はあなたの目の下半分が、それぞれ観ている。
おわかりだろうか?
目はあくまでもレンズだ。
上に属する世界を、眼球の下半分が観ることはできない。逆もまた然り。
にもかかわらず、私たちはそのできるはずがないことを、やって(やろうとして)しまって・・・いる。
よくよく自己観察してみるといい。私は、最大の敬意を込め、あなた方1人1人に向け、誠実に問いかけている。
柱や壁などに、ナジオンの高さに小さなシール(文房具店にあり)を貼り、まずそこを境に、視覚世界を上下に二分してみる。これだけでも、かなりスゴイ。
そこから、ナジオンにヒーリング・タッチし、そこをそのもので感じ(その場所の位置感覚と存在感とを神経的に合致させる)、そこを境に天地(上下)を別ける。そこから上が天、そこから下は地、だ。
わかった者は、皆、エエーッと楽しげな驚きの声を出し始める。
とんでもない、かなり高いところで、みえている世界を別けるかのごとく、最初は思える。ところが、たしかにそこに両目(瞳孔)があるのだから、(目でみている世界を)そこ(ナジオン)から天地(上下)に別けるのはまさに合理的と、「腑に落ちる」。
すると、「凄いこと」が起こり始める。
人によってプロセス内容は異なるが、まず本物の腰が顕われてくるだろう。続いて、背骨の各部が調律され、統合されていき、さらにはぱかっとナジオンのところで頭骨が開く(支点は後頭部つけ根のいわゆる盆の窪)。
立位であれば、臍下に強い緊張が小球状に集約するのが、感じられるだろう。ナジオンと共に、臍(の奥のスリット)をヒーリング・タッチで意識化するのも良い。いうまでもなく、臍が元でナジオンが末。
すると、臍の下(下腹)の領域に、集約的な緊張が発生する。いわゆる臍下丹田だ。
丹田からもっと奥まった腰腹の間に人体重心部がある。一呼吸ごとに、そこから精妙なるエクスタシーを帯びた振動(波紋)が全身へと拡がっていく。
非常に繊細な粒子性へと、体感のマトリクス(基盤)そのものがシフトしている。
このあたりまで来ると、まったく何の予備知識もない者が面白半分で試みるのは、少々危険かもしれない。高圧注意! 爆発物注意! 膨大なエネルギーが一気に開放され、「焼き切れて」しまうかもしれない。「溢れこぼれて」しまうかもしれない。
くれぐれもご用心を。
◎ナジオンのところで天地を別けることがコツだ。
ストッと「はまる」と、自分という存在感が広漠たる天地の「裡」へと溶け込み、渾然一体となる絶妙境が味わえる。
◎前回と前々回で述べた土踏まずの活性化について、少し補足を。
踏んでいる足裏の、床と接しているギリギリのところ、土踏まずの縁を、足裏の体重配分をあれこれ変えながら、端から順次移動しつつ探っていくといい。
点を順につなげ線を描いていく。足内側のところは、そこを床につけて感じていく。
土踏まずの外周ぐるりに意識が行き渡り、点が線でつながったなら、その線(外周)の内部にすっぽり意識が収まる(入る)。これが秘める、ということの本質だ。
◎踏んでいるところ(足裏)といないところ(土踏まず)の意識を使い分けられるようになったら、意気盛んな者は武術的な稽古へと、徐々に移行していく。
ペアを組み、受け手は術者を強くつかむ、あるいはおさえつけるなどする。
術者は、まずこれをがっちり受ける。と同時に、自分の足裏を観察。「踏んで」いるところだ。相手の攻撃の「重さ」が、そこにかかってくるのがわかるだろう。
そこから、「踏んでないところ」つまり土踏まずに意識をシフト。できるだけ素早く、トータルに全面的に。
土踏まずは、踏んでないから重さもかからない。したがって自由である。その自由と安息の地に、「住み替える(移住する)」感じで、足裏の意識をシフト(移すこと)せよ。
すると、そこ(土踏まず)から絶妙の波紋が起こり、全身で響き合って、必要な仕事(わざ)が自ずから為される。流れるように、巧みに。
受け手は、土踏まずが突如液化するのを感じ、足元から崩れていく。
Be water.
水と化し、流れ、巡るべし。
◎水は方円の器に従う。
老子いわく、水は最も弱くして、最も強きものをも溶かし・崩し・化す、と。
◎慣れてきたら、互いに土踏まずを活かしながら、スキを伺い合いながら、虚々実々のかけ引きをしながら、スモウ的に、あるいは言葉の元来の意味での<柔[やわら]>的に、あれこれ楽しむのもいい。
これだけでも、水平次元への大いなる拡がりと発展の可能性がある。
◎習熟してきたら、目隠し稽古もできるようになる。
目隠しをし、どこから来るかわからない相手の攻撃に対し、常に土踏まずを3の原理で意識し続けることをもって、応答していく。
言うまでもなく、初学時は攻守共に無理をせず、トリッキー過ぎる動きは避けるようにする。
来られた瞬間、土踏まずから意識が外れ、足裏で踏ん張って相手の力、勢いを受けてしまいそうに、最初はなるかもしれない。
が、マナを信頼しなさい。
そのちっぽけな土踏まずには、全身の運動すべてを調整する高度な機能が秘められているのだ。
しかるべき役割を与え、思う存分力を発揮できるようにしてやれば、偉大な働きをしてくれる。
ただ、任せればいい。自然に、コトがなされる。
その時あなたは、自らの土踏まずに対し、大いなる尊敬の念を抱かずにはいられなくなるだろう。
◎龍宮拳に限らずヒーリング・アーツ学修には、やはり動画が不可欠と感じる。
人類の視覚は進化し続けており、より精彩でより立体的な画像体験への欲求が大衆レベルで高まりつつあることを思えば、インターネット上で高精度・高画質の3Dムービーを「観照」できる日が来るのも、それほど遠いことではないかもしれない。
が、今はまだ短時間の小さな2D動画が精いっぱいだ。それでも、以前と比べれば格段にクオリティ(精度・情報量)が高くなったムービーを、ネット上で提供できるようになった。
本サイトサーバーの「月間転送量」に限度があるそうで、無制限にどんどん、というわけには遺憾[いかん]ながら今のところいかないのだが、今後は動画をもっと活用しながらヒーリング・アーツについて説いていく。
◎これまで述べてきた龍宮拳・波紋の足の実際を、近いうちにムービー撮影してみようと思っている。
現在、協力者(相手役)を募っているところだ。
◎先日、新しく我が家に迎えた子猫マヤに「お手」を教えてみたら、2~3回ですぐできるようになってしまった。
次の日、「お立ち」を教えたら、それもたちまちできた。
「輪くぐり」だってお手のものだ。
その様をヒーリング・ムービー撮影の練修を兼ね、妻にビデオ撮影してもらった。
撮る側・撮られる側ともに不慣れなため、至らぬ点はご容赦のほどを。
この他にも、「猫の滝登り」とか「肩乗り」など、いろいろ特技を持ってらっしゃる。
これを書いている今も、私の肩に乗ってきた。肩の前後に腹ばいでうまくのっかり、器用にバランスを取りつつ、PC画面を面白そうに観ている。
◎仰臥し、両膝を曲げ、両足裏を合わせた際、土踏まずのところにできる空間を、水袋を揺さぶるみたいに、あれやこれや自由に揺さぶるのも、土踏まずの意識を目覚めさせるための良い練修になる。
皆さん、本当に土踏まずは水のように「揺れる」のです。
<2011.11.21 金盞香>