Healing Discourse

ヒーリング随感4 第2回 裡なる水の覚醒

◎『ヒーリング随感3』でご紹介したフローイング・ソーサー改め <龍の台[うてな]>に土踏まずを載せ、足底(足裏から土踏まずを除いた部分)を平らに床に置く。土踏まず(球面)と足底(平ら)の位置・角度・形は、それぞれ「違う」。まったく違う。
 が、多くの人は同一方向のものと仮想し、足底と土踏まずを一緒くたにして足を使ってしまっている。
 そんなことを長く続ければ、その人の足はきっと痛みやすくなる。疲れやすくなる。それでも変調を無視し続ければ、壊れて使い物にならなくなるかもしれない。
 街角で道行く人々をしばらく観察すると、足・脚の故障を、行き交う人々の中に驚くほどたくさん発見して驚かされる。超高齢化社会は、誰も気づかないうちに、あるいは気づいても異常を無視し続けるうちに、密やかにこの世界に浸透し、その姿を現わしつつある。
 私が観るところ、非常に硬直化した、頭の堅い頑固老人のような、頑なで融通の利かぬ面白みのない社会が、すでに現出しつつあるようだ。今後、これ以上老化してつまらなくなっていくとしたら・・・・・ちょっと想像するだけでぞっとするではないか。
 私が言っているのは、老人の割合が増える、といった呑気なことじゃない。
 若者たちまでが、今、(内面的に)どんどん老化しつつあると感じるのは、私だけなのか?
 そこに一石、いや一皿を投じてぐるぐる波紋を巻き起こし、硬くなった人々の心と体の水を活性化させれば、あるいは、社会全体が一気に<水化=若返り>を遂げる可能性は、ある。

◎私は、宇宙の真理とか至高の境地とか、そういった浮世離れしたことじゃなく、流体感覚に基づき常に水々しく生きるという、体内の7割を水が占めることを思えば人間としてごく自然な、あり方・生き方について述べている。

◎龍の台と土踏まずとでヒーリング・タッチし合う。
 接触面のどこをとっても、常に、触圧の垂直線が立つように触れ合う。
 まずは、土踏まず(龍の台)の爪先側と踵側(前)に、意識を別けるとよいだろう。
 丁寧に土踏まずで球面の形をなぞりつつ、一番高くなっているところを基準として、前へ、後ろへと何度も(接触感の形・連続性を)感じ確かめていけば、それだけでぱあっと鮮烈な新体感が内面的に啓[ひら]かれる。
 その半円の前後のバランスを、様々なポーズ、動きのさ中において計り続けることで、途方もなく深遠なヒーリング調律が、あなたの心身にもたらされる。
 膝を曲げ伸ばしするような動作でも、一瞬一瞬を切り取って静止させ、改めて龍の台で土踏まずを確認すれば、前後のバランス感覚が驚くほど欠けていたとわかるはずだ。そもそも土踏まずの後ろ半分なんか、これまでなかった、感じてなかった、という人も多いだろう。
 龍の台は、ホームセンター等で材料を買ってきて、簡単に試作できるものだ。発泡スチロールの玉をカットするだけでも、とりあえずは良いと思う。これがないと龍宮拳の学びは始まらないから、真剣に研究・実践してみようと思う人は大至急用意してほしい。ちょっとした手間を補って余りある、絶大の効果を保証する。
 両足をぴったりつけた時、左右土踏まずの円みにすっぽり納まるサイズ・形状がベストだ。これは人によりそれぞれ異なるし、修養により変化・発達することも当然考えられる。

◎これまで私の元に届いた報告によれば、子供から中高年まで、男も女も、皆、両土踏まずを合わせると「円かった」そうだ。
 友人たちの報告によれば、分厚い透明なアクリル板を椅子で支えてその上に人が裸足で立ち、これを下から観察したところ、やはり(左右揃えた)土踏まずは円く観えたとのことだ。
 この円い土踏まずを、単に頭で考えてイメージするのでなく、土踏まずに円く低いドーム状のものをまんべんなく、偏りなくあてがい、土踏まず自身のタッチ感触に基づきリアルに意識化していく・・・と、それは、足底から分かれてくるりと拡がり、見事ななべ底(両足をつけた時)を形作る。
 その形の裡へと入ることができれば(周囲をまんべんなく意識化し、連動すれば)、古人が足裏の中心を「湧泉」と名づけた理由[わけ]も自ずから明らかとなろう。
 あなたは、いわゆる「生命の泉」を発見する。
 そこから、水の質、水の感覚が、湧き溢れてくるところ。
 全身を、体だけでなく、心まで、水々しく、瑞々しくさせる、身体における水の中枢。
 それが、何を隠そう土踏まずだ。
 しかも、両方半分ずつ揃えると円い鍋底みたいになる土踏まず。

◎土踏まずを、前と後ろに別け、その前後を常に平衡させる・・・ことを、あらゆる姿勢、動きの基礎とする。
 これを肥田春充は、「(動きの際)爪先へも踵へも体の重さが偏らない」と説明している。
 正しいが、あたかも(離れている)爪先と踵の間でバランスを取り合うかのごとき誤解を与えやすい言葉づかいであり、バランスを取る第一要因として土踏まずの爪先側前半分と踵側後ろ半分の曲面を、まず示すべきだと思う。
 つまり、全身の流体的バランサーである土踏まずの前後の使われ方が、常に偏らないように、相照的になるように(鏡に映し合うように)する。
 言うまでもないと思うが、爪先(足指)と踵とは、土踏まずを前後からはさむ、互いに反対向きのものだ。互いに反対向きに働く。伸びる時も縮む際も。

◎龍の台に、丁寧に土踏まずをまんべんなく、前後のバランスよく密着させ、同時に足底[そくてい]は床と偏りなく密着。
 その時、床と龍の台と、それぞれに対し、足底と土踏まずがヒーリング・タッチしている。
 ここでもヒーリング・タッチが鍵となる。
 土踏まずと足底で、龍の台の曲面と床の平面と、それぞれヒーリング・タッチ。
 各々の向かい合う箇所を、互いに直交させる。相手の面に対し、垂直に、真っ正面から向き合う。触れるものと触れられるもの、両者を、作用・反作用の関係に置く。
 すると、凄いことが起こる。
 足の形(構造)そのものが、まるっきり変わってしまう。
 最初に述べたように、これまであなた方は、土踏まずも足底も「同じ向き」と仮想してきたのではなかろうか? 両者がまるっきり別の方向性(意識の拡がり方)を持っているなど、想像したことすらなかったのではないか?

◎さあ、これでかなり、水になってきたはずだ。
 そうなると、かつてあれほど難解・不可解だった老子や荘子の言葉が、リアルに体感・理会できるようになってくるから愉快愉快。
 老荘思想の本質をとらえ、無為の為を「(実践・実現・実行)できる」ようになることは、古来、かなり高度な(最高の部類の)人生上の境地とみなされてきた。
『老子』や『荘子』をじっくり時間をかけ、何度も繰り返し味わうのも楽しいが、龍宮拳修養者に対しては故・福永光司氏の『飲食男女』や『「馬」の文化と「船」の文化』を、特にお勧めしておく。
 龍宮拳のみならず、ヒーリング・アーツの思想や術[わざ]とダイレクトに響き合う箇所をたくさん発見して驚くはずだ。

◎ついでに述べておくならば、爪先の足指側は土踏まずの前半と、足首を含む踵側は土踏まずの後半側と、それぞれもっぱらダイレクトに関わり合う。
 足首は、土踏まず後半のなだらかなドーム状曲面の上に、斜めに載っている。

◎円い土踏まず円周の部分を、時計の文字盤にみたてて意識化し、そこに流れ(円環の慣性)を生じさせることについては、『ヒーリング随感3』第25回にてプライベートBBSの過去記録を通じ、詳細に解説した。
 それと同様の原理を、掌芯(掌中央の浅く円い大きなくぼみ)へも、適用できる。
 ・・・と、足同様、やはり掌芯円周の後ろ側(手首側)の意識、使い方が希薄であったとわかるだろう。
 かしわ手を打つ瞬間、合掌する時、あるいは凝集、レット・オフなど、様々な曲面において、改めて掌芯をトータルに感じ、使っているか、確認していくことは、初学者に限らず非常に有益だ。
 時計の文字を読むのと同じように、掌芯の外周を12分割された円とみなして、注意を各時間の目盛りへ、正確に置いていく。
 そうやって掌芯を円いものと仮定して、演繹的に、ちょっと仮初めに、試しに、身体を使ってみる・・・・と、これが思いもかけなかったほど、劇的に「効く」。

◎私は、猫じゃらしで愛猫と遊ぶ際も、ヒーリング・メディテーションで心を澄ませることを心がけている。と同時に、上体(みぞおちから上、頭や手も)は虚にして虚、中体(腰腹)は実にして実、下体(骨盤、脚、足)は虚(膝上)にして実(膝下)というトリニティ姿勢原理に基づき、身体を運用している。
 この際には、意識も超越的な(時間・空間を超えた)ハイフリークエンシー(超高速で精妙に振動している)状態となるが、それが私の言う、「心を澄ませる」ことだ。
 死んで硬直したような停止ではなく、無限の委ねの裡にくつろぐこと。「自分が」「自分の」「自分を」「自分で」それらもろもろの「自分(自我、エゴ)」そのものを、自己滅却し続けていくこと。
 ヒーリング・アーツのレット・オフは、「自分(我、私、僕・・・)」自身に対してかけることもできる。自分という存在感を強調→レット・オフするのだ。すると、自己存在感がすーっと薄れて消えていくのだが、興味深いことに、この際苦しみや悩みも同時に消えるという現象が起こる。
 幾度も繰り返すうち、自分がいない時苦悩は存在しないという、驚くべき事実が明らかとなるだろう。
 
それが意味するところとは、自分(という感覚、存在感)こそ、苦悩(葛藤、ブロック)により生み出されたものにほかならない・・・・?????
 我=苦・・・・・??????
 確かに、とんでもない声明だ。納得して受け容れるには相当時間がかかるかもしれない。
 が、とにかく「我」の感覚をレット・オフするたびごとに、身体内面が極めて細やかに、まろやかに充実し、波打ち揺れるようになる。そして楽になる。自由になる。これは事実だ。
 感覚が開かれている人なら、自我を粒子状にほどいて楽になるたびごとに、眉間のところが、薄皮がはらりと溶けるみたいに緩むのがわかるだろう。
 そこは思考の中枢でもある。
 そして苦の核[コア]ともなる。苦悩している人は皆、眉間に力が入っている。

◎節分を祝う猫・帰神フォトを2舞。

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by スピカ

by マナ

 

 

<2012.02.03 鶏始乳[にわとりはじめてにゅうす]>