◎前回に続き、龍宮拳伝授会の一場面を、ムービーにてお目にかける。
「こういうこと」をやっている時、私と組み合った相手の身体には、瞬間瞬間に調律[ヒーリング]が起こり続けている。それで、「倒され、投げられるたびにどんどん元気になる」などという、従来の武術では考えられなかったような変奇な現象が発生する。
あの人たちは、苦しんでいるのではなく、とても悦んでいるのだ。皆、伝授会終了時に、とても楽しかったと元気そうに大喜びしていた。
その点、くれぐれも誤解なきように。これらは、あくまでもヒーリング・アーツだ。本気で取っ組み合う、ヒーリング・アーツ。
なお、動画中で流れている音楽は、妻の新作『エルニド』。今年5月の、エルニド(フィリピン)巡礼を契機として顕われたヒーリング楽曲だ。
◎3つ目では、どたんばたんやっているうちに、その振動でいつの間にか三脚のどこかが緩んだものか、画面が変な具合に傾いている。撮影中はまったく気づかなかったそうだ。
動画ではいまだ「悟り」を得ておらず、至らぬ点、不行き届きな点が多々あることは承知している。とにかく、ヒーリング・アーツ流で真っ正面からぶつかっていくのみだ。
◎以下は、プライベートBBSの過去記録だ。波紋の足及びフローイング・ソーサーと関わる部分を抜粋・編集した。
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土踏まずの問題に、今一度、皆で立ち返ってみようではないか。
男も女も、衣服と共にすべての文明の虚飾と仮想をかなぐり捨て、素っ裸の自身の「あるがままの真実」を観極めんとする意気込みにて、自らの「土踏まず」に還るべし。
鏡の前で足を投げ出して座り(足裏は鏡の方)、両足の内側をぴったりつけてごらん。床の上に立ってやっているみたいに、左右の足底[そくてい](足裏から土踏まずをのぞいた部分。立った時、床につく部分)をできるだけ平らに。
君の左右2つの土踏まずを合わせた、「それ」、その凹みは、一体どんな形に観えるか?
誰でも片っ端から同じようにしてもらって、両土踏まずを合わせた形を、調べてみよ。自分のも調べてもらえ。
つるつる撫でて確かめてもみよ。
それは、球面(の一部)では・・・・あるまいか?
球の先端部を切り取った、低い円いドーム状・・・。
中華鍋の底をひっくり返したような。
土踏まずは・・・・円かった?
それを確認するため、青竹を捨てて今度はソフトボールに、そっと円く、土踏まずを載せてみよ。ぴたりとはおさまらないだろうが、ボールのまるさを手がかりとして、土踏まずの形を感じていく役には立つ。
やはり、土踏まずは・・・・円い?
円いものとして感じる方が、土踏まずの流体化がより滑らかに起こる。
改めて考えてみると、土踏まずのアーチは全身の重みや地面からの衝撃を受け、バランスをとるための装置なのだから、そこが円い形をしていることは最も合理的ではあるまいか?
土踏まずを並べ合わすと、円かった・・・・。
ここ最近、何人かで確認したら、皆そうなっていた。
まだ仮説だ。
皆もチェックして報告してほしい。
本当にそうなのか?
それとも、人によって千差万別、不定形のものなのか?
両足内側を密着させて立ち、土踏まずと足底の境目(床と触れ合っているところのボーダー、境界線)を、丁寧に少しずつ、触覚で確認していく。
すると、それはやはり円い。中華鍋の底をひっくり返したような形をしている。
最初、大半の人は円く感じられないだろうが、それこそ土踏まずの使われ方の偏り(アンバランス)を示すものだ。
存在自体が感じられない(どこにあるのかわからない)ところも多かろう。
足底で軽く踏んだり、やめたり、重さのかかり加減をあちこち調整してみたり、あれこれやりながら、根気よくラインをつなげていくといい。やればやるほど円に近づいていく。スラスラ、滑らかに自在に、意識を外周に沿って回すことができるようになる。
すると、土踏まずの「裡」に入れる。
土踏まずが不定形な形であるよりも、それを円く意識している方が、断然楽で自然だ。足だけでなく、全身そうだ。
両足を揃え、円い土踏まずを柔らかく載せる、そういうツールを、山田君は造れないものか。
青竹の代わりに踏む(載る)ものだ。土踏まずを圧迫しすぎるほど高いのは不可。
土踏まずが適度に柔らかくタッチされ、活性化されるような。土踏まずの円みを、土踏まず自身に思い出させるような。
ちなみに、足首及びその上に載る全身は、土踏まずの後半部分のみとダイレクトに関わる。足首は土踏まずの真上にあるのではない。自分の足で確認せよ。
土踏まずを円いものと認知を切り替え、その上で青竹に載せることと、ソフトボールに載せることとを順に行なってみました。
青竹に載せている時にも、土踏まずから波紋が起こってきて、全身に行き渡り、気分が晴れ晴れと爽快になりますが、ソフトボールの場合は、波紋そのものがさらに有機的、立体的になり、全身への伝わりも信じがたいほど滑らかに、まさに水のように感じられました。青竹が2Dだとすると、ソフトボールの時は3D波紋へと一気に次元アップした感じがします。
土踏まずが細長い、歪んだ形のものであると仮想していると、動きがギクシャクしてあちこち固くなります。本来の円い形を感じられるほどに、身体の中が透き通って粒子感覚が細やかになり、起こってくるSTMも今まで顕われたことのない動きとなります。
奥深く繊細なSTMによって、身体というのはこんなにも自由に動き、開くものなのだと、自分の身体ながら感心し、このように正しく認識せず、仮想のまま酷使していたことに懺悔したくなるほどです。
ソフトボールでの練修を終えた後、腹部全体と触れ合ってみると、臍から上のみぞおちは柔らかく弾力があり、臍から下の下腹部はしっかりと緊張して充実していました。
鏡の前にて足を投げだして座り、足裏をみて形を確かめ両足をつけると土踏まずは円い形でした。そして青竹とソフトボールを使い龍宮拳を行ないました。青竹よりもソフトボールのほうが波紋が滑らかで立体的に伝わってきて腰椎の固まっていた部分がほどけました。青竹とソフトボール、この違いは大きいと思いました。
青竹に代わるツールを造りたいと思います。
鏡で確認しましたが、土踏まずはやはり円くなっていました。ソフトボールは、私の土踏まずには少し小さいですが、円みが意識されてくると、立体感・滑らかさが出てきて、全身が変容されてきました。
ところで、透明なガラスやアクリル板のテーブルのようなものに裸足で立ち、誰かが台の下から足裏を観ると、よりはっきり土踏まずの形がわかるのではないでしょうか。
先生の御伝授に従い、土踏まずの認識を書き換えていきました。まだ球の形があいまいではありますが、土踏まず自体をかなり前に仮想していたことが認識されてきました。
土踏まずを円いものと認識した時に起こるSTMはとても自然で今までSTMだと思っていたものも、様々なところに余分なコマンドが入っていたことが認識されることになりました。
御伝授いただきありがとうございました。
足を映す鏡がなかったので、土踏まずと触れ合いながら、足裏を観てみましたが、当初、土踏まずの円さは今一つぼんやりしておりました。しかし、ソフトボールを利用しながら何度も繰り返し土踏まずの形を出していきますと、確かに円さを持ったものとして感じられてきました。
そうなるとこれまで足、脚、骨盤周辺、背中等々、相当頑固に固まっていた部分がゆっくり解け、無感覚だった部分に感覚が戻ってきました。足のブロックが全身に及ぼす影響が如何に大きいものであるか、改めて認識した次第です。また青竹の場合と比べて、かなり効きが良いように感じられました。
波が全身を粒子に分解するような、文字通り龍宮由来のマナでありました。励行いたします。
土踏まずを鏡に映して確認してみましたが、確かに円く観えました。夫の足も、触れ合いつつ観てみましたが、やはり円かったです。
ご教示いただいたように、立位で両足をつけて、足底で踏んだりやめたりしながら土踏まずと足底との境目のラインを探していきましたが、初めは感じられない部分が多すぎて断片的な感覚しかなかったものの、何度もラインを繋げ、感じられない部分は行ったり来たりしながら足底の感覚を頼りに繋げていくと、だんだんとそのラインが浮かび上がってきました。そして、その円が思っていたより遙かに大きいことが分かり、驚きを隠せませんでした。まだありありと円く感じられるわけではありませんので、もっと練修していきたく思います。
実は、その直前にソフトボールに土踏まずを載せてマナを実践してみておりましたが、足底と土踏まずの境目を探すことに取り組んだ後で、ソフトボールを使ったマナを執り行なってみると、その波紋はより一層滑らかさが増していて、粒子が非常に細やかに感じられ、湧き起こってくるSTMによってグニャグニャに溶かされていくようでした。何度か執り行なっていると、ある時、どっと一気に血流が流れ始めたのが分かり、身体が熱くなってホコホコしてきました。
そして、終えた後に足を床に着けると・・・、足のあまりの透明感に驚かされました! しばらくその余韻を味わいつつじっとしていたのですが、その爽快さが足から全身に染み渡ってくるようで、感・動しました。本当に素晴らしいです。お教えいただき、誠にありがとうございます。
鏡にて確認いたしますと、確かに土踏まずは円く感じられました。土踏まずと触れ合っておき、土踏まずは円いものと認知をあらためた上で青竹の上に載りますと、青竹では顕れてくる体の動きに制限が設けられているかのように感じられました。それに対してソフトボールの上に載りますと、その制限が解除されるように感じられました。円いと認知をあらためるだけで、これまでの動きとは格段の違いが感じられ、それはこれまでの動きがあまりにギクシャクしていた、あるいは連続的ではない動きのように感じられたのに対して、あらたに認知されたことにより顕れてくる動きはつながりをもった、連続的な動きに感じられ、そうした動きによって全身が整えられてくるように感じられました。似て非なる動きであり、その違いに驚くとともに、かなり身体の使い方をリセットする必要があるように感じられてきました。
先日、高木先生に両足の内側をぴったりくっつけた状態での足裏を、土踏まずの境界線に沿ってぐるりと指で円くなぞっていただきましたが、改めて自宅でもその円さが確認できます。ソフトボールの上に足を柔らかく載せると、青竹の上に載せた時よりも立体的に触れ合っている感覚があります。
両足の内側をくっつけて立ち、足底と土踏まずの境界の線が浮かび上がるように重さをかけたり、上半身を軽く傾けたり、少し腰を回すようにしたりしながら確認していくと、円さの感覚がどんどん滑らかになってくるのが感じられます。抜けもあり、精度もまだまだですが、それでも足底と土踏まずの境界線が繋がってくると、回転台の上かボールベアリングの上に乗っているように、円く円く滑らかに流れていくのが感じられます。
足首から上が載っているのは土踏まずの後ろ半分、つまり境界線が描く円の後ろ半分側に載っていることをだんだん実感している所ですが、これまでに後ろを向いたり腰を回したりといった胴体中心に感じていた円とは全く違う円い感覚があります。
土踏まずの円周を2つに割った、片足ずつのラインを、それぞれ6分割してみよ。前半分(爪先側)を3、後ろ(踵側)を3、つまり両足合わせて時計の文字盤に見立てる。それを、1つずつ確認するように意識していく。片足ずつ。
行ったり来たり、何度も繰り返す。最初は、それほど緻密にやろうとする必要はない。ざっと大ざっぱでよろしい。ただし、円さ(半周)という全体像は常に見失わないように。
とりわけ、後ろ側のラインが非常に感じ取りにくいだろう。
日常的な身体の使い方では、すっぽり抜け落ちている部分だ。
そこが円く流れるようになると、そのラインの内側(土踏まず)にも、外側(足底)にも、未知の感覚が拡がっていき、これまで動いたことが(流れたことが)なかったところが、自由自在に波打つようになる。
右足から左足、あるいはその逆へと、最初は両足をつけ、円周に沿って意識を回していってごらん。回すというよりも、1つ1つの目盛りを順に意識して活性化していく。活性化とは、マナが目覚めることだ。
これまでにも説いてきたことだが、ヒーリング・アーツにおいて「流れ」とは、位置感覚の連続性にほかならない。
何かを流していくのじゃない。ただ、意識を移していく。
そうすれば、流れは自然に起こる。
知っている者は、比翼修法や連理修法をクロスオーバーしてみたまえ。
あるいは、「円い土踏まず」に対し、熱鍼法を試みてみよ。
または、神勇禅を円い土踏まずで執り行なう。足を踏み出す際も、指先とか踵ではなく、(円い)土踏まずを踏み出してみる。
肥田春充は、爪先へも踵へも体の重さが偏らない、と述べたが、私なら「土踏まずが爪先側へも踵側へも偏らない」と言う。その方が、断然、わかりやすい。
実は、肥田春充も私と同じことを言いたかったのではないか、とも思う。
なぜなら彼は同時に、「重心は足芯に落ちる」と述べているからだ。その足芯(土踏まず)から、爪先へも踵へも偏らない、ということだ。それを皆誤解し、爪先そのものと踵そのものの間で、何らかバランスを取ろうとする。
土踏まずを鏡で観ましたが、皆様に比べまして土踏まずが浅いこともあるのかもしれませんが、最初ははっきりと円く観て取ることができませんでした。
しかし、両足を少し傾けるなどしながら観続けておりますと、土踏まずの形が明らかになってきました。「円い?…アッ!円い!」とそれまで感じていた土踏まずへの思い込みが徐々に解除されていきました。
いままでは少し歪んだ長方形のように感じておりましたが、何度も観察し、注意深く触れ合っていきますと爪先側においては親指から小指に向かって円くカーブしており、踵側においてもそれほど長く伸びておらず足首のあたりでスッとカーブを描いておりました。しかし、土踏まずが円いものへと認知が変わっていくにつれ、逆に「自分の土踏まずは偏平足で歪んでいるから円くないかもしれない。」という思いもどんどん浮かび上がってきました。
すると、「偏平足でダメな土踏まず」というコマンドが顕れたことにより、長年にわたって自分で自分の土踏まずに呪いをかけてきたのだということにも気付きました。今思いますと「偏平足」であるということは人生で最初にはっきりと感じたコンプレックスではないかと思っております。いまでも小学校の低学年のときに足型を取った際に保健の先生から「偏平足」を注意され、それを聞いていた友達に揶揄されたことを覚えているくらいですから、子供心にショックだったのだと思います。わたくしの通っていた小学校では運動場は裸足で遊ぶことが義務付けられていましたので、学校の方針として足に対する意識が高かったのだと思います。「偏平足」といわれてからというもの、傍で遊んでいる友達のこんもりと盛り上がった(凹んだ)、深々とした土踏まずを観るたびに羨ましく思ったことを覚えております。
そして今、自分の土踏まずが円いということに気付き始めた途端に、それらのことを全部ひっくるめた古いコマンドから少しづつ解放され、土踏まずを含めた自分の足に対して自信が芽生え始めたことを感じています。
熱鍼法にて土踏まずの周りを刺激していきました。最初は刺激していること自体も感じられにくかったため、温度を高めに設定し、繰り返して刺激していきました。次第に土踏まずの感覚が明瞭となってきました。
ソフトボールの上に土踏まずを載せて、土踏まずのソフトボールと触れ合っている箇所の外側を丁寧に、ゆっくりとなぞるようにして意識していきました。土踏まずの踵側の意識が分かっているようで分かっておらず、よく感じていくようにいたしました。円いものとして認知をあらためたところから、より丁寧に感じてみますと、その円いという感覚がこれまで曖昧であったように感じられました。とくに踵側の箇所は自分がボールと触れ合っているつもりになっていて、実際よく確認してみますと、これまで自分が土踏まずの一部であるととらえていた箇所が実際にはボールと触れ合っておらず、その触れ合っていない箇所を円いところの一部としてとらえていたようでした。ボールの周囲をよく意識化していったあと、足を地面に置いてみたところ、本当に中華鍋をひっくり返したような感覚があり、これまでよりもより円い形で感じられるようになってきました。
土踏まずの周りに対して意識を移していくと、足の骨格が組み変わっていくように感じられるとともに、すーっと意識が裡に入ってくるのが感じられてきました。旧来の使い方がかなりすり込まれているようで、足に余計な力が入ってしまうのを感じるときもあり、丁寧に行なうことをまずは心がけております。
『ヒーリング随感3 第21回』を拝読し、波紋を土踏まずから起こすというお話をお聞きいたしますと、いかにこれまで上体から起こっていたか痛感いたします。
土踏まずを鏡で何度も観つつ、ヒーリング・タッチしていくうちに、その形が徐々に意識されてきました。これまで、土踏まずが斜めになっており、凹んでいると何度も認識し直してきましたが、この度伝授していただいたマナにより、身体感覚のレベルで劇的な変化があることを実感いたしました。
土踏まずを円いものとして認知しなおし、ソフトボールを用いて「波紋の足」を修しますと、美佳先生が「3D波紋」と書かれておりましたが、まさにその通りだと感じました。青竹踏みよりもさらに、土踏まずから起こる波紋が立体的に、繊細に全心身を統合していき、自然なSTMに、心身が洗われていき、大いにいやされました。
波紋の足で椅子運動法を執り行ないました。
まず、最初の基本姿勢の段階で、椅子と触れ合う足の意識が完全に踵に偏り、「踏んで」しまっておりました。3の原理で土踏まずでバランスを取り、波紋の足で型を執り行ないますと、かつてなく、無理なくスムーズに動くことができ、自然な流動感、充実感を感じました。旧来のやり方では、偏った足で踏みつけてしまっていたことで、自ら動きを制限していたことがハッキリと感じられました。
それにしても、波紋の足は気持ちいいな。
君たちは、その恩恵をきちんと受けておるのかね? 気づかわれるところだ。
左右合わせた円周全体を、時計と同じように12等分し(左右6ずつ)、それに沿って意識を回してみることについては前に述べた。我々は普段から時計を見慣れているので、円周を12等分するとそれぞれの点(1時、2時、3時・・・)を意識しやすい。
くるくるくるくる、左右合わせた円周を回していく。右回り、左回り、両方よく練修するといい。
最初はゆっくり。文字盤の1目盛りずつ丁寧に。それぞれの目盛りにおいて、円周に対し直角に意識を使う。
ところで、その同じ速度で意識していって、倍の速度を出す(倍の速さで回転させる)方法があるのだが、わかりますか? できますか?
これがわかり、できるようになれば、倍の速さで動けるようになる。あるいは、同じ速度で動くのに2分の1のエネルギーしか要らなくなる。
ただし、ちょっとばかり高度な左右意識の統合が必要ではある。
中華鍋の底を半分に断ち割ったような形として土踏まずを認知する時、私は最も滑らかに、自然に、自由に、「水」として流れ動くことができる。これが龍宮拳の基本態勢だ。
そして、土踏まずを「凹んでいる」と認識するのは外側から見た意識であって、土踏まずを内面から体性感覚で感じた時には、それは鍋底を裏側から観たように「凸」(の半分)になっている。
とにかく、両足内側をぴたりとそろえ、土踏まずの円周を次々巡っていきなさい。巡礼の意気で敬虔に。
流れの感覚は、位置感覚の連続性として起こる。土踏まずの円周の文字盤を1つ1つ丁寧に意識していくと、習熟度により、人により、違いはあるだろうが、数周もしないうちに、徐々に流れが出てくるはずだ。
ぐるぐる回り始める。
水が回転する感覚が、如実に感じられるようになる。
自分が普通に歩く速度で、1つ1つの目盛りを、次々と意識していきなさい。
最初は、慎重に、1歩1歩を確かめつつゆっくり進む時の速度で。
とにかく、常に、「歩みの速度」を意識する。
私が内的巡礼といったのは、決して単なる比喩ではない。
そして私たちは、人生の巡礼者でもある。
この、土踏まずの円周を巡るタイミングを、歩みの感覚とシンクロさせることは、今回初めて公開される口訣だ。
1、2、3、4、・・・10、11、12と、内的に数えながらやれば、あらあら不可思議おや楽し、これまで時計で慣れているから、円く土踏まずの円周を辿っていける。
意識の方向性と場所を間違えて円周が歪んだ際には、直ちに全身的に偏差が生じる事実を、敢えて各ポイントを様々に偏らせることで(各ポイントにおける注意の方向性の角度を、直角以外に敢えて様々に変えてみる)、確認してもらいたい。
ぐるぐる回して左右半身それぞれ水になって、左右の足を合わせ続けようとするもついに溢れこぼれ(ただし内的に)、つけた両足(両手もつけて合掌しておくとよい)が自ずから離れ(手も離れる)、水の質を媒体として様々なスピリットや自然界のエレメンツなどが舞われる、それが龍宮拳だ。
地球のあらゆる生き物は、水を基質としているから、龍宮拳は地上のあらゆる生命を舞うことができる。
左右の足で、円周を12等分し、波紋の足を修すると、時計の文字盤との相似もあってかなり意識しやすく感じました。ゆっくりと、順番に意識していきますと、円周のそれぞれの部位でまったく異なる世界と言ってもよい違いが感じられ、これまでになく鍋底のような形が顕われてまいりました。
この修法を執り行なっておりますと、特に普段あまりに意識されていない円周の後側を意識した時に、何ともいえず気持ちよく、身体そのものが喜んでいるような健康感を覚えることが多々あります。
また、円周を巡っていくうち、ある時、ガクガクっと脚の余計な力が抜けていき、その裡を力が流れ始め、複雑な形が顕われ始めました。「これほど余計な力を入れてしまっていたのか・・・!」と感・動し、特に膝の周りなど、無駄に凝り固めてしまっていたことに愕然としました。
さらに次第に足だけでなく、体幹の方まで、奥深いところからグルグルとかき回されるような体感も生じ始めました。初めての感覚の連続に大変驚くとともに、活力が湧いてきております。
1、2、3・・・と数えること自体に未だかなり時間がかかり、歩みとシンクロさせることは円周が歪みがちになってしまいますので、さらに練修していきたく思います。
円周を12等分して波紋の足のマナを実践してみましたが、時計を見慣れているため直感的に等分することができ、円として意識しやすいことを感じました。
初めのうちはゆっくり執り行ない、1つ1つを意識することで精一杯でしたが、何度も意識を回していると、次第に円周が滑らかに繋がっていき、身体が波うち始めました! 腰のこわばりが溶け始め、どんどん水のように全身が滑らかになってきて、非常に気持ちよく爽快です。そして、土踏まずの場所がぽっこりと浮いているように感じられ、その形はまさにひっくり返った円い鍋底で、土踏まずをこんな風に立体的に感じられたことは初めてでしたので、大変感・動してしまいました。
また、同じ速度で意識して倍の速度を出す方法については、左右の足で12等分した向かい合った箇所を同時に意識し、意識を回していくのではないかと思い、それぞれ左右の足の箇所を同時に意識してみました。これは難しくてまだゆっくりとしかできませんが、身体の中の水がぐるぐるかき回されるような感覚が強くあります。この方法だと、それまでの半分意識を回すだけで円が1周し、確かに倍の速度といえるのではないかと思いました。
座位から足を前に出して両足をそろえて土踏まずの円周を12等分にしたとき、一部に分かりにくい場所が存在しているように感じられました。また立位にてソフトボールに足を載せて、土踏まずを意識化しておりましたが、ソフトボールでは両足をそろえて載せることが難しかったので、より鍋底を理会するために取りあえず発泡スチロールで土踏まずに合わせた小さな中華鍋のような形のものを作製し、あらためて立位にてその上に両足をそろえて土踏まずを載せました(現段階ではこれまでより正確に取り組みたいためこうしたものを用意して行なっておりますが、まだまだ大きさや形、素材などもっといいものがあるといいように思っております)。
ここでたいへん驚いたことは、片足ずつソフトボールに載せて取り組んでいたときに、ソフトボールを真っ直ぐ土踏まずに対して載せることができていなかったのではないかと感じられたことでした。これまでこうした形で載せたことがなかったことにもよると思われ、あるいは足の使い方も土踏まずの真ん中のラインよりも前側に偏って使っていたのではないか思われました。また、土踏まずの位置というのが、かなり自分の体の真下に近いところに存在しているように感じられ、これまで土踏まずの位置をもっと前側に存在しているようにしていたことにたいへん驚きました。
立位にて両足をそろえて載せてみますと、土踏まずの周囲がかなり明瞭に感じられてきました。そのようにして載せた状態で1、2、3、・・と円周を意識していくと、うまく意識できていないところというのは、その箇所を変な方向から感じようとしている、あるいは姿勢を傾けて感じようとしているように感じられました。毎回同じところで躓[つまず]いてしまう箇所に対しては熱鍼法にて刺激していきますと、少しずつ感じられてきました。こうして意識化を図っておりますと、土踏まずの教えは腰腹相照原理に合致しているように感じられてきました。意識を円周に沿って動かしていると顕れてくる体の動きというのが滑らかに感じられてきました。まだ、歩くという段階よりももっと基本的なところから取り組んでおりますが、この円周に沿って動かせるようになることは凄いことのように感じられてきています。
ムービー『波紋の足 練修』を観照させていただきました。ソフトボールに載せるとき土踏まずをくまなく意識化されておられるところも、自分はまだまだ不十分に執り行っていたように感じられました。その後の床の上で両足をそろえてからの動きはかなり凄く感じられました。土踏まずが凹んでいるようには観えず、凸型のように観えました。ここまで動きが導き出されていることにたいへん驚いています。ムービーを観照いたしますと、土踏まずやその周囲を意識化していく必要があることを感じました。こうしたムービーを観照できる機会をいただき、ありがとうございます。
足裏の土踏まずの円周の意識の前後の偏りが相当あるのが感じられ、片足4等分ずつで全体で8という全て半分の状態から意識を巡らせて確認を始めておりました。何日か執り行ない、慣れてきてからようやく片足6の12等分まで進めてきています。意識する場所を少しづつ増やしていく中で、土踏まずの円周の前半分と後ろ半分で等分に意識しているはずであるのに、意識する場所と場所の距離が前側は広く後ろ側は狭くなっている、感覚が鈍い状態であるということがしっかりと自覚できてきました。これまではもっと漠然とした感覚で、そこを曖昧なまま意識のポイントを順番に意識していた事がわかってきました。
歩みの速度で、丁寧に円周上の意識のポイントを巡礼していくという新たな要訣を意識して執り行なっていくと、流れる波紋の感覚が、よりスムーズに、より細やかに、変容していくのが感じられます。
ひと区切りしたときに必ず臍とのヒーリング・タッチを執り行なっておりますが、繰り返すうちに、臍を中心に全身の意識のマッピングが調整される感覚が感じられるようになってきております。
ソフトボールに土踏まずを載せていると、急に足裏から起こる波紋を無意識的に制限していることが感じられ、「もっと水になれるはずだ」という感覚が湧いてきました。
以前に高木先生がグラスに水を入れ、それを手に持たれた状態でグラスではなく内部の水に意識を切り替えられる状態のお体と触れ合わせていただき、皮膚や筋肉や骨が感じられていたものが、急に液体になってしまう、という驚くべき感覚を味わわせていただいた事がありますが、その時の感覚が急に想起され、これまで感じていた波紋の感覚よりもさらに深く、液体の質感が生じてきました。
その時、同時にこれまでの人生の中での水の中に手を入れたとき、海やプールに入った時、ポリタンクやバケツなどに水をいれて運んだ時といった、いくつもの状況での「水」の感覚が急に同時に連続して思い出され、ありありと水の流れる感覚が感じられました。
古くから武術などで様々なメタファーとして水の色々な振る舞いが使われていることに特に違和感なく目にしてきましたが、現在の日本の状況のような水道普及以前の、生活のための水汲みや運搬、水仕事といった水と直接触れ合う生活の中では、もっと強烈にリアリティがあったのではないかということに今頃気付かされました。
波紋の足を修しつつムービーページにて公開していただいた先生の映像を観照すると、土踏まずの円周を驚くほどスムーズに意識が流れていること、そして一切の滞りなく瞬時に全身に行き渡っているのがはっきりと観え、その凄まじさに驚かされました。
『波紋の足 練修』にて両足を揃えて土踏まずの円周を巡っておられるところから、両足を開かれたときに、両足の土踏まずによって出来ていた半球がさらにきれいに二つに割れてそれぞれが流れを生み出しているのがはっきりと観える事にも感・動いたしました。
一昨日の龍宮拳伝授会では、山田君が持参した新練修ツール、名づけてフローイング・ソーサーを、徹底検証した。
参加者は皆、かなりの手応えを感じたようだ。
おそらく、帆足君が報告していたのも同様の体験だろう。教えられずとも独自にその境地を啓いたのは素晴らしい。
青竹でもソフトボールでもなく、玉の一部を切り取った円い形のもの(土踏まずにぴたりとあたるもの)に土踏まずを載せると(この時、土踏まず以外の足底はソーサーにタッチせず、床と触れ合っている)、土踏まずの意識化が驚くほど促進される。
このたびの伝授会では、開始数分で参加者たちが早くもヒーリング爆発し始めた。
何しろ、龍宮拳はただ相手を倒すだけのわざじゃない。倒された相手がほとんど瞬時にヒーリングされて気持ちよくなり、あまりの気持ちよさにあえぎ、うめき、叫んでしまうという、超絶的ヒーリング武術なのだ。
その伝授会の模様を、ごく一部に過ぎないが、しかし結構長時間、美佳が録画した。そして、その冒頭場面を、『ヒーリング随感3第24回』で早速公開した。
ヒーリング・タッチから入って組手練修という場面を、さらに2つ、ムービーで公開予定だ。伝授会の流れの中で、私のわざがどういう風にバージョンアップを遂げていくか、一目瞭然でわかるようになっている。
・・・・・・・・・・・
というわけで、今、友人らの間ではフローイング・ソーサーなる奇妙なものが、密かなブームとなりつつあるところだ。
<2011.12.27 麋角解(びかくげす)>