◎体の外側から見た状態をイメージしながら、「水」とか「波」になろうとしても、似て非なる動きはできるだろうが、その内面は自由闊達[かったつ]にしてどこにも滞[とどこお]らないようなものでは、・・・おそらくあるまい。
かつて、私自身が同様の過ちに陥っていた。ゆえに、自[おの]ずから謙虚とならざるを得ない。
◎例えば、身体表面のふくらみ(山)は、皮膚の内面からみると器のように凹んでいる。
私たちは通常、自分の皮膚の外側から自己存在感を感じており、「世界」も皮膚の外側にあるものと思い込んで微塵[みじん]も疑わない。
が、感じるための神経は皮膚の内側にあり、よって自己も世界も、当然皮膚の内面で感じている。
広大無辺な光景も、目を通じて得た光学情報を元に、脳内で再構築されたものに過ぎない。ゆえに、世界はあなたの裡にある。
内と外は正反対だ。
外側に自己存在感がある時、あなたは世界から切り離されて孤独であり、ちっぽけで、限定されており、生きることは本質的に空しい。結局は死がすべてを奪い去るからだ。
これに対し、内が内そのものを意識している状態においては、上記とちょうど正反対のことが感じられる。実際には、感じる者はいないので(思考活動は脳の皮膚表面の出来事なり)、「感じられる」というよりは「感じることそのものが、ただある」と記す方がより正確だろう。いずれにせよ、思考がない世界、すなわち言葉や記号が成り立たない境地を、言葉によって言い表わすことは不可能なのだが。
◎自分自身の最根本、中心は、肉体重心部にある。
それは、「長さも幅もない、ただ位置だけがある」(肥田春充)という、皮膚の外側からすれば非常にちっぽけなものだ。
が、驚くべきことに、通常は眠っているその重心部の感覚が神経的に目覚め、あたかも脚の生えた「太陽の塔」みたいな内観が起こる時、人は「無限」や「永遠」、「一体性の超宇宙的エクスタシー」、「(神抜きの)神聖さ」などを強烈に感じる。否、感じる者と感じられる経験との区分はもはや存在せず、ただ「それ(名づけえぬ究極のもの)」のみがあってある。否、在るとか無いということすら、そこでは超越され尽くしている。
◎この、言葉に言い表わせない経験を舞い、聖美の宇宙を生きる道が、ヒーリング・アーツだ。
今、私たちが盛んにやっている龍宮拳も、ヒーリング・アーツのあらわれの一つに過ぎない。我々はただ、面白いから、やり甲斐があるから、楽しいから、・・・それに、人類全体にとっても大切な内容を含んでいると感じるから、龍宮拳に取り組んでいる。そして、様々な形で分かち合おうとしている。ただ、それだけのことだ。
◎龍宮拳は、ただ「顕われる」。
私が創作するとか、編み出すとか、そんなものとは全然違う。
これを啓示といい、体得というのだろうか?
私にはわからない。
しかし、龍宮拳は素晴らしい。
始めてからまだ1年も経ってないが、武術マニアなら垂涎[すいえん]ものであろう、いわゆる「極意」の数々を、我々はすでに一体いくつ手にしたことだろう。
龍宮拳の極意は実際に良く「効く」。正しい手順を踏んでフォーミュラを実践し、意識の方向性を構築すれば、神聖幾何学的な次元転移による<マナ(聖なる流入)>の示現が起きるのだ。
すると、勝手に体が動いて、相手も勝手に倒れていく。自分が強くて優れているわけでもなく、相手が弱くて劣っているわけでもない。
<2012.04.12 鴻雁北(こうがんかえる)>