◎『ヒーリング随感4』収録のムービーは、実際に撮影した動画のごく一部を抜粋したものに過ぎないが、オリジナルの動画データには龍宮拳の技が一体いくつ登場するのか、丁寧に数えていった人がいる。
同じ技のように見えても、膏肓(こうこう:肩甲骨内側にあるポイント)を使ったり、下脚(膝と足首の間)の血流ポンプを応用したり、胸郭のやわらげを作用させたりなど、原理が明らかに異なる場合、それぞれ別個の技とみなす。
多数相手に1度に技をかける場合は、相手が何人でも1手。
同質の動きでも、右手首をつかまれてその右手首で技をかける場合と、左手をつかまれ右手首で技をかけることは、2手としてカウントする。
こんな風な基本ルールを設け、1つ1つのムービーとじっくり取り組みながら計数した結果は、「およそ千余手」であったという。
およそ、というのは、1つ1つの技の切れ目がよくわからず、1人の相手に複数の技が連続的にかけられることもしばしばあり(この場合はすべてひっくるめて1手)、おまけにあんまり熱心に観るものだから、いつの間にか技が超時空的に「かかって」しまって、気持ちよく舞っているうち、いくつまで数えたか忘れてしまうことを幾度も繰り返した・・・という。
身体の裡より楽しく気持ちよく起こってくるSTM(自発調律運動)に心地よく浸っているうち、「数量」(に関すること=相対性)が心より洗い流されてしまったのだろう。
実際、私は二元性を統合止揚する超越的態度・姿勢にて、龍宮拳が自ずからその姿を顕わすがままに、いつも任せている。
◎伝授会では帰神撮影しない時間も多いので(撮影者が疲れるため)、実際の技のバリエーションはさらに多いだろう。約半年間の数値だ。
これに対し、技として千変万化する以前の技のエッセンス、内面的な本質を、私は特に術[わざ]と書き、口頭では時に「じゅつ」と呼ぶなどして一般的な技(外から見える形)と区別しているのだが、上記の期間中に伝授会で取り扱った術の数となると、ぐっと少なくなって十数〜数十手くらいのものか。
これが、ヒーリング・アーツ(龍宮拳を含む)における「技」と「術」の違いだ。
◎「自分」がやる、と思ったら、もうダメだ。たちまち、ぎこちなくなる。錆[さ]びついたように重苦しくなる。
「我[われ]」「私自身」「自分」、それら自我[エゴ]と心理学で呼ばれる内的実感に対し、龍宮拳は「ほどき」というアプローチをとる。
我(の実感)をほどくとは、自我(の感覚)を全面的に振るわせることであり、それはある意味で自我のトータルな発達を手助けすることともいえよう。
が、その結果として感じられるものとは、いびつに膨れ上がって思い上がった膨張自我の対極にある、静謐[せいひつ]な宇宙的爆発に酔いしれる我なき我にほかならない。アハム・ブラフマースミ。宇宙は神の顕現なり。すなわち、最終的に自我を超越することを目指し、まず自我を熟成させる。熟成すれば、自我は自ずから落ちる(ほどけ始める)。
◎身体が自動的に動いて自らの必要な箇所を自ら調律したり、習ったこともない高度な武術のわざが突然できるようになったりするSTMについて、現在の意識、あるいは自己存在感は同じままで、ただ新しい動きが加わるものと誤解している人が多い。
そういう認知の元では、ただ変わった動きが出た、あるいは身体がちょっと滑らかに、自動的に(無意識的に)動くようになった、といった効果くらいはもちろん得られるだろうが、それ以外はNIP(ナッシング・イン・パティキュラー)だろう。
思いもかけぬような、ものすごい型または動きあるいは原理などを通じ、「その場で、ただちに」みるみる「(身も心も)変わって」いくようなものでなければ、とてもSTMとはいえぬ。
◎ほどけは、あきらめとか放棄、我慢・忍耐などとは、何の関係もない。
ほどけた結果として、何かがあなたの人生よりワイプアウトする(消え去る)かもしれない。が、それは感覚/意識がより熟した結果として、自然に関心がなくなった、興味がなくなった、というだけのことであって、無理な、苦しい、つらい、身を切られるような、抑圧・努力は一切伴ってない。
ほどけが起こる時、価値のないものだけが落ち、価値あるものはその輝きを一層増す。
私は、自らの実体験に基づき語っている。
◎何事であれ、私はクリシュナムルティ同様、それをやめなさい(これまでとは正反対の、180度の方向へと動く、あるいは動こうとすること)とは、決して言わない。
私は、直角の道を、不可思議な霊的縁[えにし]のネットワークを通じ、知るに至ったのだが、そこでクリシュナムルティという素晴らしき先人を(再)発見した。
例えば、あなた自身の右手と左手をトータルに、同時に、均等に、意識し合ってみるといい。
ヒーリング・アーツの中級者でも、これはちょっと骨の折れる課題だ。まず、右手という感覚、存在感、位置感覚・・を右手そのものの実際の物理的位置(3次元空間内を占める場所)と合致させていく。
同じようにして左手も意識化し、左右交互に練修してある程度コツがつかめてきたと感じたなら、両手同時へと移る。それぞれ50%(通常の半分)ずつ意識する。
左右を「同時に」「均等に」「作用・反作用的に(鏡で映し合ったような関係性の元に)」感じる/意識する・・・のが、要訣だ。
成功すると、左右の手が共振し始める。と同時に、「ぶっ飛ぶ」(全心身が粒子的にほどけ、流れ始める)だろう。
これを「超越」という。しなやかな感性の持ち主なら、私がその人の両手を取り超越モードへとシフトすると、一緒に「飛べる」かもしれない。
身体が右と左に真っ二つに割れたなら、「右と左の意識、方向性、感覚はまったく違っていて、互いに鏡像的な関係にある」と以前より私が述べてきたことを思い起こしてほしい。その真偽を、自らの体感を通じ確認できるはずだ。
右でもない、左でもない、「それ」・・・両者の中心・・・が、「第3のもの」だ。
3を引き起こすためには、1と2を同時・均等・鏡像的に意識し合う。感じ合う。
これが「3の原理」だ。
◎3の原理は、筋肉の働かせ方にも応用できる。というより、3の原理の方が2の原理(筋肉は、両端の起始部と停止部の間で伸び縮みする)よりずっと自然で、効率がいい。
例えば上腕二頭筋(二の腕の力こぶの筋肉)を3の原理で照らし直してみよう。起始部、停止部という名称自体、その二極間を力が行ったり来たりするかのごとき(仮想の)身体イメージに基づく命名を暗示しているが、3の原理では筋肉をそうした二元的観点からみることをやめ、腕を曲げて力こぶがふくらんだ際に一番太く、大きくなるところを、上腕二頭筋の「真ん中(=3)」とみなす。そして、その中心より起始部(1)と停止部(2)へ向かって同時・均等・相照的に、筋肉を開いたり閉じたりする。
こういう風に3の原理に基づき筋肉を使えば、体は突っ立ったまま無意識的で(あまり感じられず)、ただ腕だけが屈伸されて力が入るなんて(一般によくありがちなパターンだが)、そもそもあり得ないのだと、直ちにわかる。
3の原理を使って動けば、全身各部の筋肉が自ずから上腕二頭筋に呼応して働き始める。3の原理(中心の原理)を通じ、身体各部は共振・協働するのだ。これを、中心ネットワーキングと私は呼んでいる。
身体の各中心(手の中心、足の中心、手首の中心、腹の中心、腰の中心、膝の中心、膝裏の中心・・・・これらがすべておわかりだろうか?)にはヒエラルキー的な関係性があり、人体の中心部に近いほどヒエラルキーがより「中心的」となる。
中心的とは根本的という意味であり、二元性における上下関係とか優劣などを指すものではないことにご注意いただきたい。
◎3の原理では、全身各部が「同時に」動く。一方から他方へと力が伝わるような動き方ではなく、全身が流動・循環的に連動している。
循環、というとこちらからあちらへ行き、それがまたこちらへ戻ってくるようなイメージを、つい抱いてしまいがちだが、それは全然違う。
行くことと来ることとは、同時・均等・相照でなければならない。それが私の言う「循環」だ。どこにも切れ目がない、アルファ(最初)とオメガ(最後)が円になって閉じている状態。
2の原理の場合、筋肉の両端の間を(一方から他方へと)神経情報が伝わらねばならないが、3の原理ではその半分の距離(神経の長さ)を動くだけでいい。ただし、「中心から一方へ」と「中心から他方へ」が、常に中心において平衡がはかられ、一方と他方が「同時、均等、相照的」になっているようにする。ヒーリング・アーツで御鑑[みかがみの]わざと呼ばれる意識の運用法だ。ヒーリング・バランス、ともいう。
すると、筋肉の緊張・弛緩とは、各筋肉の中心部における凝集と拡散にほかならないことが次第に感じられるようになるだろう。
こういうやり方で動く時、人は最も自然で楽だと感じる。
だから、自然で楽かどうかを、常にチェックすることだ。
◎180度の道は、「何かをせよ」と「何かをやめよ」とで成り立っている。いろんな既存の道をこの観点から検証すれば、それが2の道か、3の道か、直ちにわかる。
私も2の道をあれこれ試したことがある。が、遺憾ながら充分な効果を実感できたことが、1度としてない。3の道からみれば、2つのうちの一方のみを選んで他方を排斥しようとするなど、「不経済というよりも無経済」(肥田春充)である。
◎現在、リノベーション(部分的改修を意味するリフォームに対し、全面的・徹底的に改めることをこう呼ぶそうな)工事の、真っ最中である。
隣の天行院で猫たちとレフュージ(隠遁)生活を送っているが、静かな瞑想的生活の中でヒーリング・アーツのさらなる深奥を探る・・・など、とうてい不可能であるとわかった。何ともナイーブなことに、工事に伴い発生する音[ヴァイブレーション]のことをスッカリ失念していたのだ。
レフュージ初日、すぐ隣でバリバリがりがりやっているさ中、いつもどおりに五感を全開放した・・・途端、・・・・・・家が・・・・・・「痛がっている」(?!)と如実に感じられて驚いた。
ドンドンがんがん、盛大に工事する音が体中あちこちへダイレクトに響いてきて、何だか目に見えない相手に霊的に攻撃されているみたいだ。力が抜けてよろよろっとなる。
翌朝は、寝床から起き上がるのさえ大儀だった。全身に猛打を浴び、幾度も繰り返し地面に叩きつけられたみたいにボロボロだった。
妻もまったく同様の状態となった。前夜の夢の中では、自分が家そのものとなって、皮膚(壁)を引きはがされたり、釘を引き抜かれたりしたそうだ。私は、基本的に夢を見ない。ヒーリング・メディテーションを始めてから夢が消えた。
◎解体工事中のわが家の様子(夜)を、帰神撮影した。渾沌のうちにもある種の美がある。
物霊1(Click To Enlarge) | 物霊2(CTE) |
深夜、廃虚と化したわが家を独り訪[おとな]い、香を焚いて捧げた。そして、各部屋の壁や床とヒーリング・タッチで触れ合っていった。
ヒーリング・タッチを使えば、触覚を通じダイレクトに部屋(家)そのものと響き合うことができる。その時、インドの覚者OSHOが、「部屋にひとりで静かに座り、空間を愛で満たしていけば、やがて部屋そのものから愛が返ってき始めて驚くだろう」と述べていたことを思い出し、ヒーリング共振の状態で部屋、そして家全体に「愛」の感覚を放射してみた。
するとOSHOの言う通り直ちに感応があって、言葉にするのは非常に難しいのだが、敢えて譬[たと]えるなら「家が語りかけてくるかのごとき」印象が、手を通じてやってきた。それは満身を満たし、胸の中心で内破し、「溢れた」。
ここで過ごした過去約20年間の様々な出来事の印象が、フラッシュバックがコラージュ的に重なるように、あるいは波の列なりのように、私の裡に展開されていった。まるで・・・・・家(部屋)と一緒にそれを観照しながら、言葉ならざる言葉にて、内的に語り合っているかのようだった。
かえりみれば、かつて衣食住に細やかに心を配った覚えが・・・一度もない。
このたびのリノベーションをきっかけに改める所存だ。
◎家のヒーリングが功を奏したか、当初のような異様な感覚は、妻も私も感じなくなった。
工事の音が体に直接響いてくることに変わりはない。しかし、そういう状態にも急激に適応して、この異様な状況(神聖なるプライベート道場/アトリエたる天行院は今や足の踏み場もない、まさに避難所[レフュージ]と化した)をさえ楽しめるようになってきた。
球を腹に敷いて受動的に委ねきるウサギのマナ及び熱鍼法を、特に熱心に時間をかけ励行した成果といえる。ウサギのマナは、「変化への適応力」を養うメソッドとして、十数年前から私が提唱しているものだが、自ら十数年間実践してきて、確かに「効く」ことを確認ずみだ。
◎工事中といえども、<マナ>が示現したなら直ちに伝授と稽古だ。
内容は骨盤底の隔膜(の伸縮)を使って術をかけること。
こんな風に、私がいるとすぐなってしまい仕事が全然はかどらないため、私は工事・作業中の現場への立ち入りを禁じられてしまった。
<2012.08.24 綿柎開(わたのはなしべひらく)>