Healing Discourse

久高島巡礼:2013 第2回 神話の舞台

[ ]内はルビ。

 巡礼2日目。
 夜明け前、窓を激しく打つ雨の音で目を覚ました。
 前日のうちにセイファー御嶽[うたき]詣でをすませておいて正解だったわけだ。
 今日の昼から久高島案内を頼んであったガイドには、昨夜連絡し、今朝一番のフェリーで島に渡ることを伝えてある。
 あいにくの空模様だが、なんくるないさー(何とかなるさ)、久高島へ着く頃にはきっと降りやむ。
 私もすっかり沖縄モードだ。

 昨日とは違うルートを通って南下し、セイファー御嶽のすぐそばにある安座真[あざま]港に着いた頃には、雨もほとんどあがり、空が少しずつ明るくなり始めた。
 フェリーの切符売り場が開[あ]くのをのんびり待ちながら、そばに寄ってきた猫たちを帰神撮影した。山吹色の目が素敵だ。
 巡礼2日目は、雨がやんだ後もずっと曇りがちだったので、この日撮ったフォトは以下の2枚のみ(クリックすると拡大)。
 こんな調子で大丈夫かいな、とどうかご心配めさるな。
 なんくるないさー、だ。

 今回の巡礼直前、岡本太郎の『沖縄文化論』を再びひもといた。
 私が初めて、偶然、手にして読んだ「岡本太郎」であり、マスコミによって作り上げられた奇矯な前衛芸術家のイメージに当初すっかり毒されていたため、簡潔だがリズミカルで格調高い文章にまず強烈な違和感を覚え、たちまち鮮烈に惹きつけられ、ページをめくるたびごとに新たな世界が啓[ひら]かれるかのごとき感動に酔いしれた。
 天才的な感性と磨き抜かれた知性の、最高レベルの統合がそこにあった。
 胡散[うさん]臭い、芸術家気取りの嫌みなポーズなど、微塵も感じられない。
 まさに独立独歩、自主独往。と同時に、ユーモラスでチャーミング。
 2度、3度と読むたびごとに、新鮮に感動し、新しい発見がある。そういう希有な書と出会えた幸運を、私は天地神明に感謝したい。

 岡本太郎も、ここ久高島を何度か訪れており、1966年の秘祭イザイホー(注1)に参列した際の報告が、『沖縄文化論』に収められている。
 この1966年度イザイホーの記録映画が残っているが、その中で一瞬、あの独特のポーズでカメラを構える岡本太郎らしき姿が映し出される。左目でファインダーをのぞく体勢といい髪形といい、おそらく間違いなかろう。

 さて、ゆらりぐらりと高速フェリー船で20分ほど揺られて久高島に到着。直感通り、船を降りると雨はすっかりやんでいた。
 港でガイドの車に乗り換え、直ちに主要ポイント巡りへと出発した。
 港を出てすぐ、東の海岸沿いに北へ伸びる未舗装の道へ入ると、懐かしい、見覚えのある光景が、ここにも、あそこにも・・・。
 ああ、ここは全然変わってない。やはり来てよかった。
 それに、何だろう、総身で感じられるこの異様な、戦慄にも似た感覚は?
 久高生まれというガイド氏の説明によれば、今日は旧暦の一日[ついたち]で、東の海から上陸した神がこの道を通ると、昔から言い伝えられているのだそうだ。
 五穀の種が入った壺が漂着し、そこから沖縄全体へ穀物栽培が広がっていったというイシキ浜。龍宮神(!)が鎮まる北端のカベール浜。琉球創世神が降臨した聖地・クボー御嶽[うたき]・・・・。
 オキナワの原風景がここにあった。
「龍宮神」なる名称を、私はこれまで独自に使用してきたのだが、ここ久高島でも龍宮神(竜宮神)が祀られていると、今回初めて知った。
 ただし、久高の人々にとっても龍宮神とはそもそもいかなる神なのか、よくわからない謎めいた存在のようだ。
 私にとっても同様だが。

 私は狂喜すると同時に、やや戸惑ってもいた。
 イシキ浜でもカベール浜でも、それぞれ独自の「ありがたい」質を感じた。特別な資格を持つ神職以外、何ぴとたりとも立ち入りを許されぬクボーウタキでは、入り口に近づくにつれ、磁石の同極同士が反発し合うような斥力が強まっていくのをハッキリ感じた。
 それは、ありがたいし、うれしい。けれども、ちょっと出来過ぎのような気がしないでもない。
 私は、「そういうもの」を、これまで感じたことが一度もない。
 あるいは、これは、私の過度の期待が生み出した幻想、錯覚なのか?
 そのように疑って何度も虚心坦懐を心がけるのだが、ざわざわと魂を揺るがせるような、全身の皮膚で感じられる、ある種の圧迫感のごとき感覚は、一向に減じる気配をみせない。

 ガイド氏は何も感じないのだという。が、これまで彼が島内を案内した旅行客の多くが様々な不思議を体験しており、中には感極まって涙を流す人や、意味不明の言葉を発しつつ立ち入り禁止のウタキ内部にぴょんぴょん飛び跳ねながら侵入していった人もいるそうだ。ちなみに、後者のようなケースでは(こわいから)一切干渉しないとのこと。それにウタキの奥に入っても、岡本太郎が『沖縄文化論』で報告しているように、そこには「何もない」のだ。

 親切なガイド氏に丁寧に案内してもらったおかげで、以前は皆目見当がつかなかった久高島全体の大まかな概略がつかめた。
 明日は、沖縄の原点であるこの小さな島を自転車で縦横無尽に巡りつつ、帰神撮影/巡礼していく予定だ。
 水中撮影の用意もしてあるが、予想以上に体感温度が低く、2~3枚重ね着してちょうどよいくらいで、あんなに「寒い」沖縄は初めてだった。しかも、昼間は中潮の干潮でかなりの遠浅状態になるとのことで、水中用具の出番はおそらくないだろう。
 必要なし、とあらかじめ直感ではわかっていたのだが、「わざわざ沖縄まで行って海にも入らずおめおめ帰ってくるなど、龍宮巡礼の名にふさわしからぬ」などと考え直し、シュノーケル・セットやらあれやこれや、スーツケースにたっぷり詰め込んで宿に送った、そのほとんどが無駄になった。
 もっと直感を信頼するすべを学ばなければ。

 ところで、今回久高島を案内してくれたガイド氏の口からも、岡本太郎の名が何度か出た。
 が、その中で一つだけ、気になることを聴いた。
 1966年のイザイホーを取材するため久高島を訪れた岡本太郎が、死者を野ざらしにして白骨化させる風葬地に勝手に踏み込み、木棺の蓋をあけて、まだ肉が残っている比較的新しい遺体を写真撮影。それを新聞で発表したため、久高島では岡本太郎の評判はかんばしくない、というのだ。
 たしかに『沖縄文化論』中に、那覇から来た新聞記者に案内されて風葬の現場をみた体験が、真剣かつ誠実な筆致で描かれている。
 が、沖縄とそこに暮らす人々にあれだけ深い、真摯な共感を寄せ、沖縄人自身が忘れかけていた民族の誇りを、あれほどの早い時期(沖縄の本土復帰前)に鋭く洞察し正確に指摘した、岡本太郎のような人が、現地の慣習を踏みにじり、死者を平然と冒涜するような行為を、果たしてするものだろうか? 
 岡本太郎は単にすぐれた芸術家というだけでなく、当時世界の文化・芸術の中心地であったフランス・パリにおいて、ソルボンヌ大学で哲学や民族学を修めた「学者」という一面をも兼ね備えている人物なのだ。民族や部族固有の文化を尊重する態度を彼が持たなかったとは、とうてい信じがたい。
 沖縄がまだアメリカの統治下にあった頃、人々が自らの文化を恥じ、泡盛すら疎んじていた状況で、ひとり岡本太郎だけが泡盛の素晴らしさを讃え、泡盛、泡盛と夜の酒場を一生懸命探し回ったのではなかったか? それでも泡盛を置いている店が一軒もみつからなかったというから、泡盛全盛の現在からするとまったく信じられないような話ではある。
 私は、「内地人」としてではなく、18歳で初めて訪れて以来、沖縄を第二の故郷と長らく感じてきた者として言うのだが、沖縄にとって岡本太郎は友人であり恩人でこそあれ、墓荒らしや興味本位の覗き屋などでは断じて、ない。
 少し調べれば、きっと、誤解に過ぎなかったと判明するはずだ。
 棺を勝手に開けて遺体の写真を公表したのは、太郎を案内したという新聞記者だったのではないか? そして、本土の著名な芸術家である岡本太郎の名を引き合いに出し、記事に重みを添えようとしただけではないか?

 ・・・・岡本太郎のこととなると、なぜこんなに「熱く」なるのか、自分でもちょっと不思議なほどだ。
 が、どうか思い起こしてほしい。かつて沖縄の本土復帰が決まった時、「日本に沖縄が帰ってくるのではなく、沖縄に日本が帰るのだ、との意気込みと誇りをもって、これから新しい時代を切り拓いていってほしい」との熱いメッセージを沖縄の人々に送ったのが、岡本太郎であったことを。

<2013.04.19 穀雨(百穀、春雨に潤う)>

注1:久高島で12年に1度執り行なわれていた、新たな巫女を迎えるための秘儀参入儀礼。1978年を最後に終焉を迎えた。