Healing Discourse

ヒーリング・リフレクション3 第八回 魂への犯罪

◎熱鍼法創始者・平田内蔵吉くらきち(1901~1945)によれば、両目の中間が顔の中心であるという。
 インドの賢者OSHO(1931~1990)は、第三の目アージュナー・チャクラは最初額から眉間あたりに種子として伏在するが、そこが活性化して開かれるにつれ下へと下がってきて、最終的に両目の間で開花する、と晩年に述べている。
「両目の中心」とは具体的に(解剖学的に)どこなのか、上記の両者とも明快に述べてはいない。が、みるからに「それ」らしいのが、鼻骨前頭縫合にあるナジオン(鼻根点)だ。

ナジオン

奥はホモ・フロレシエンシスの頭骨。これで成人である。『ヒーリング・リフレクション2』第十二回も参照。

 実際のところ、頭骨の形に沿ってナジオンが上下に開くよう意識すれば、いいこと・面白いことがいろいろいっぱい起こるのだ。
 一例をあげよう。
 まず、ナジオンと指先でそっと触れ合い、上と下から柔らかく閉じるようにしてから、レット・オフで柔らかく上下へ開く方向性を導く。上への方向性と下への方向性を、両方同時に・均等に・鏡に映し合うように相照的に、意識することがコツだ。また、ナジオンをいきなり開こうとするのでなく、いったん軽く閉じ、その反発力を利用することも要訣(大切な秘訣)となる。
 体得者にヒーリング・タッチで教え導かれれば、誰でもすぐできるようになるものだし、独習で会得することも難しくないと思う。ナジオンが開けば腰が自ずから(軽く)入り、下腹に(軽い)緊張が生じる。これは、腰や腹を作為的にどうにかしようとすることとはまったく無関係に、自然にそのようになる。そして同時に、「観の目」が自律的に立ち現われてくる。

 さて、ナジオンの開放が自覚できるようになったなら、次のちょっとした実験を試してみるといい。
 まず、ナジオンのことは考えず、座位か膝立ち、あるいは立位で、上体を折ってゆっくり体勢を低くし、顔を床に近づけてゆく。すると体が自動的に反応して、手を床につくなり、あるいは柔道の受け身のように、体を回して顔が床にぶつかるのを避けようとする動きなどが起こるだろう。好きなように転がっていっていい。我慢比べとか度胸試しのようなものとは違うので、決して無理をしないように。
 次に、ナジオンをそっと柔らかく開き、ナジオンの開放を常に意識しながら、最初と同じ動作を繰り返す。・・・今度は、顔が床にどんどん近づいていっても、冷静に距離を測り、ギリギリのところで余裕をもってかわすことが、自然に行なえたはずだ。途中でまばたきしない(あるいは、まばたきを最小限にする)ことがポイントだ。
 ナジオンを閉じたままと開いた状態と、交互に繰り返し実験してみれば、危険が迫ってとっさに身を固くするような時、ナジオンも無意識のうちに閉じているのだと理会できるだろう。
 そんな時は体全体が固くなっている。心もこわばり、冷静な判断ができなくなる。そんなことでは、危機に真っ正面から立ち向かって的確に対処してゆくなど、できるはずがない。
 このことわりは、相手が突き蹴りなどの攻撃を仕掛けてきた時とか、あるいは相手が武器を手にしている時などにも同様に当てはまる。逆に言えば、いかなる攻撃に対してもナジオンを開いて向かい合うことで、最も冷静に全体像を観察し、最良の応答ができるということだ。まったく同じことが、武術のみならず仕事や趣味を含む日常生活の万般へと適用される。
 つまり、ナジオンの開放は「勇気」の錬成に直結するのであり、武を舞う時、私は常にナジオン(を含む頭骨全体)を開き続けることに意を注いでいる。相手の攻撃を観切ってギリギリでかわしたりする時は、鎖骨密珠(鎖骨のつけ根)と共にナジオンの覚醒(意識化)が欠かせない。
 ナジオンを開くのは、心眼をひらくことをも意味する。面白いことに、稽古中、多数の相手が好き勝手に次々と攻撃してくるような時(動画撮影を含め、事前の打ち合わせやリハーサルなどは一切しない)、どんなに素早く、突発的な攻撃が来ても、それを「速い」とか「今のはちょっと危なかった」などと感じたことが、
これまで一度もない。むしろ、相手の動きが何だか間延びしていて遅過ぎるとさえ感じることが多いのだが、実際には「速い」とか「遅い」という二元対立を越えて、自生自化(自ずから生じ、自ずから変化する)で自然にわざが生まれているのだろう。その流れに全心身を委ねる時、どんなに激しく動き続けても呼吸はまったく乱れない。
 ところが受け手にとっては、(特に最近の武の舞は)相当な運動量であり、もう何が何だかわからなくなるほど大変なものらしい。

※ナジオンに関しては、以下も参照のこと。
 ヒーリング・ネットワーク1 ヒーリング・ディスコース『太陽と月の結婚

◎母が元々料理好きだったことも影響しているのか、小学3~4年生の頃から自発的に料理を作り始め、当時まだ珍しかった麻婆豆腐(我が国における四川料理の父・陳建民氏レシピ)とかシュークリームなど、いろんな食べ物づくりにトライした。
 シュークリームを自作したことがある方はよくご存知だろうが、材料も作り方も比較的シンプルなのに、まずあのゴツゴツ素敵にふくらんだ香り高い外皮シュー(フランス語でキャベツの意)を上手に焼き上げるのが難しい。最初はシュークリームとは似ても似つかぬとんでもないシロモノばかりが出来上がったが、諦めず何度も何度も繰り返しチャレンジし続けるうちに、少しずつコツがつかめてきた。最初に小麦粉をふるうところから、素材と対話するみたいに、一つ一つのステップを愛を込めて丁寧に・正確に行なってゆくことが鍵なのだ。
 そして間もなく、洋菓子店で売っているシュークリームとまったく遜色がないものを自在に作れるまでになったが、あれは小学5年生の時だったろうか、担任教諭の中年男性が家庭訪問でわが家を訪れた。その際、母親が、「うちの子は料理が得意で、家族や親戚などに喜ばれ、感心されている」、といった話題を何気なく口にした。その途端・・・私もその場に同席していたので、今でもありありと当時の情景を想起できるのだが、くだんの教師はとんでもないグロテスクな話を聞かされたといわんばかりにあからさまに顔を不快そうに歪めてみせ、「男が料理だなんて・・・もう子供じゃないんだから、そんなことは卒業しなければダメだぞッ」、と。
 その瞬間、私の中の何かがガラガラと(音なき音を立てて)崩れ去った。そしてこの時以来、台所に立つことを私はやめた。それは悪いことであり、恥ずかしいこと、醜いこと、なのだから。
 今、私が素人料理にうつつを抜かしているのは(私は包丁をまともに研ぐことすらできない)、満たされなかったかつての想いを満たそうとする悪あがきに過ぎないのかもしれない。
 いかなる人であれ(刑務所生活中に出会ったすべての人々を含む)、他者の夢や希望、喜び、生き方・生き様を軽んじたり、否定するがごときことを、私は絶対にしない。それが「魂への犯罪」にほかならないことを、よく知っているからだ。

◎先日、タクシーに乗った際、車内に置いてあった新聞を何気なく手に取ったら、1984年に滋賀県で起きた日野町事件の再審開始に関する記事が一面を飾っていた。新聞、雑誌やテレビ等で同様のニュースを目にされた読者諸氏は多いと思う。
 ざっと記事の内容をチェックして思えらく(思ったのは)、「(私のケースと)よく似ている・・・」と。多くの心ある人々が幾度も警鐘を鳴らしてきた司法の無法・非道は、何らの省察も改善も加えられぬまま、いまだに平然とまかり通り、繰り返され続けているのである。

 事件から裁判へと至るおおよその経緯は以下のようなものだ。
 1984年12月、滋賀県日野町の酒店経営の女性(当時69)が行方不明となり、酒店の金庫も紛失していた。翌年1月、町内の宅地造成地で女性の遺体が発見された。さらに同年4月、町内の山林で金庫も見つかっている。
 88年3月、滋賀県警が阪原ひろむ氏を逮捕(当時53歳)、95年6月に大津地裁が無期懲役の判決を下す。97年5月、大阪高裁が控訴棄却(一審における裁判内容を見直してくださいという願いを却下)。2000年9月には最高裁が上告棄却し、強盗殺人罪で無期懲役が確定した。万が一にも過ちなどあってはならないから、地方裁判所(一審)、高等裁判所(二審)、最高裁判所(三審)で3度裁判を受けられるというのは、実体なき空疎なお題目(口先だけで内容・実質が伴ってないこと)に過ぎない。
 ここまでの流れは、私自身の冤罪裁判とほぼ同じだが、被害者すら存在しない私の事件(?)と違って重罪事件の裁判ゆえ、時間がもっとかけられてはいる。が、その間、被疑者である阪原氏は(有罪という前提で)留置場や拘置所にずっと閉じこめられ、非人道的な扱いを受けていたわけで、実質的に刑務所に入っていたのと何ら変わらない。
 01年11月、阪原氏が大津地裁に再審請求、06年3月大津地裁はこれを棄却。阪原氏は即時抗告した。
 ところが11年3月、阪原氏が刑務所内で病死してしまい(享年75歳)、再審請求手続きは終了した。阪原氏は逮捕以来23年間もの歳月を、獄裡ごくり(檻の中)で呻吟しんぎんし続けたことになる。

 まずは、警察と検察の言い分を聴いてみよう。
「阪原被告は自らの犯行を自白したのだから、これ以上明白な証拠はない。また、犯人しか知るはずがない金庫発見現場へと自白通り捜査員らを案内しており、もはや有罪は確定である。さらに、酒店の机の引き出しにあった鏡から被告の指紋が検出されてもいる。有罪であることは誰が見ても明らかではないか」・・・と。
 なるほど、確かに有罪らしく思える。そもそも逮捕されるや否や、実名と顔写真が犯人として公開され大々的に報道されるから、もうその時点で「有罪」との印象が広く・深く人々の間に浸透するわけだが、これは警察・検察とマスコミが結託した悪質なイメージ操作にほかならない。

 当然ながら、阪原氏側の言い分にも平等に耳を傾ける必要があろう。
 いわく、「自白は、警察官による身体的な暴力や暴言により、精神状態が極限まで追いつめられた結果である。金庫発見現場へ案内できたのは、巧みに誘導されたからに過ぎない。酒店の鏡に指紋がついていたのは、事件とはまったく関係なく、別の折りにそれを借りたことがあったからだ」・・・云々。
 警察官による暴行・暴言は、冤罪で逮捕・拘留され取り調べを受けた時(2013)、私もしばしば経験したところのものである。腰縄つきの手錠をかけられ両手が使えない状態で、(背中を強く押され)階段の上から突き落とされそうになったり、監視カメラのないエレベーター内で暴行を受けたりした。暴言に至っては数え切れない。
 私は武術経験者であり丹田の研究家でもあるから、その程度のことではビクともしないが、私に先だって逮捕された友人(警察・検察によれば私の共犯者)は、長期に渡る肉体的・精神的拷問に屈し、連中が望むままの供述を引き出されてしまった。そうした、他人による「自白」を唯一の根拠として、私は有罪を一方的に宣告されたのだ。
 本ウェブサイト中で述べてきたように、悪意ある先入観・予断に基づき証拠や供述の一部のみを切り貼りして、事実とはまったく異なる内容に仕立て上げることはもちろん、証拠の捏造、改ざんでさえ警察・検察は平気でやってのけるし、時に裁判官までがそれに加担することすらある。私の裁判中も、虚偽有印公文書作成・使用を堂々とやらかした検察官の失態・不手際が法廷内で明らかにされた時、裁判官はすかさずフォローの手を差し伸べ、そんなことはまったく問題ないと言わんばかりの態度で素知らぬ振りを押し通した。「あんなことを公の場で裁判官がやってしまって大丈夫なのか」、と公判直後に弁護士が呆れていたほどだ。

 阪原氏の死後、遺族が申し立てた第二次再審請求(12年3月)では、阪原氏が金庫発見現場まで自白通り捜査官らを案内したとされる「引き当て捜査」で、県警が復路で撮った写真を往路のごとく逆に並べ替え調書を作成したことが発覚。そういう不正が常套手段になっているため、警察と検察は手元にある証拠のすべてを開示することを頑なに拒むのだ(私の裁判でもまったく同様)。
 弁護団が依頼した専門医による鑑定書では、遺体の損傷状況と自白内容が食い違うことも指摘されている。さらには、「阪原さんは事件当日、うちで一緒に酒を飲み、そのまま泊まっていったのだ」と主張する知人の証人までいるというのだから、呆れ返るではないか(当時は証拠として不採用)。無罪を証言できる証人を存在しないものにする卑劣な手口は、これまた私の裁判とまったく同じだ。
 冤罪・捏造の証拠がこのようにハッキリした形で示されるケースは珍しく、それゆえに当初は警察・検察の言い分のみを不平等・不公正に採りあげた裁判所も、一転、再審への流れを受け容れたという次第だ。無期懲役または死刑の確定判決に対し、死後に再審の開始を認めた高裁決定は戦後初であるという。
 一応念のため述べておくが、現時点では再審(裁判のやり直し)をこれから始めることが決まっただけであり、無罪となったわけではない。
 仮に、故人と遺族側の主張がすべて認められ、警察と検察による不正が明らかとなったとしても、現行の法制度のもとでは責任者が罰せられることはない。『ヒーリング・リフレクション1』第二回でご紹介した布川事件の冤罪被害者・桜井昌司さんが、談話の中で、「罪を捏造した警察官と検察官は、その捏造した罪に相当する罰(例えば今回の事件では無期懲役)を自らが受けねばならないよう、法律を変える必要がある」と力説されていた所以ゆえんだ。

 本稿執筆のためネット上のニュースをあれこれ調べていて、私が最も異様に感じたのは、戦後初となる死後の再審とか違法捜査などについてセンセーショナルに書き立てるのみで、阪原氏が長年に渡り味わわされた途方もない苦悩や絶望、家族の煩悶などに共感し、寄り添おうとする態度・姿勢が「皆無」であるということだ。
 やってもいないことをやったと、強大な国家権力によって理不尽に決めつけられ、人間としての尊厳をおとしめられ、これまで真面目に懸命に生きてきた人生のすべてを否定され、愛する家族や友人らと無理やり引き離されて、75歳で刑務所の中で失意のうちに人生を終えるということ・・・それが一体どういうことなのか、情報発信者も受け取り手も、想像力と感性が欠如していてまったく感じられない・わからないのだろう。
 これは我が国における制度上の問題というだけではなく、私たち一人一人の人権意識と密接に関わることだ。冤罪は最悪の人権侵害であり、魂への犯罪なのである。見て見ぬふり、知らぬふりは・・・共犯だ。
 心眼を拓いてシャーマニックな視点から観れば、無慮多数の冤罪被害者たちの悲嘆・怨恨・苦悩が、集合的な無意識の領域で複雑に絡み合い、おどろおどろしい変質を遂げて巨大な呪詛と化し、国家社会へと毒素が・・・今現在も絶えることなく、注入され続けているのだが・・・。
「日本の司法制度は確かに厳しいけれども、そのおかげで日本の平和や安全が保たれ、我々は自由を謳歌できるのだ」とは、「知ったかぶり」連中がしょっちゅう口にすることだ。が、(お上に逆らって悪いことをすれば警察に捕まり、刑務所へ入れられるぞ、という)恫喝に基づく「支配」「コントロール」を、「平和」「自由」と勘違いしているとは、何とかは死ななきゃ治らない、の見本というしかない。

<2023.03.10 桃始笑(ももはじめてさく)>