Healing Discourse

其之十三 波紋の太刀と気合

文:高木一行

 前回ご紹介した動画の撮影日から約1月半後、『ヒーリング・リフレクション2』第十回にも記したが、龍宮館・天行院の大掃除・片づけのため友人らが遠方より集まってくれた。
 龍宮道修行者同士が顔を合わせれば、当然ながら、掃除だけでは終わらない・終わらせない。
 龍宮道の稽古だ。
 その模様の一部を撮影したが、今回、木刀対木刀のシチュエーションを、龍宮道ではおそらく初めて、試してみた場面が登場する。
 木刀の形(空間性)をヒーリング・タッチで触覚的に感じる・・と、突如、まるで木刀に生命が宿ってそれ自身が教え・導いてくれるがごとくに、波紋の太刀とでも呼ぶべきつるぎの舞が顕われてきた。 
 これまで一度もやったことがないわざ、味わったことのない体感が、変化自在に舞い踊られてゆく。
 そういう、知らないわざが突然できるようになってしまう出来事イヴェントは、私が臨席する指導・稽古の場では、随分以前より日常茶飯のごとく起こり続けていることだし、最近は私だけでなく周囲の者にまで起こり始めているから、もはや誰も驚かなくなっているが、改めて考えてみると実は相当珍しい現象なのではあるまいか?

動画1 2022.05.03 於:天行院

フルハイビジョン画質 03分43秒

『ヒーリング・リフレクション2』第二回に記した熊本プチ巡礼では、宮本武蔵を「ついで」呼ばわりする無礼を働き、武蔵の御霊みたまの加護など求めるべくもないのだが、今回、木刀の片手使いが自ずから顕われてきたことは熊本巡礼と決して無関係ではないと、「肌で」感じている。
 周知の通り、武蔵創始になる二天一流では、片手で刀を持ち・使う。一刀のみを持って戦う際も、やはり片手使いが基本とのことだが、言うまでもなく、宮本武蔵と同じわざを自分も使えるようになった、などとくだらんことを私は主張しているわけではない。
 蛇足ながら述べておくが、木刀を柔らかくふわっと軽く持ち、ゆらめかせるように軽く使った方が、不思議なことに相手がたやすく崩れてゆく。
 そういえば、熊本の島田美術館に展示されていた二天一流の稽古用木刀は驚くほど華奢きゃしゃで、宮本武蔵の偉丈夫のイメージと面白い対照を成していた。ああした木刀を使って練り鍛えるわざとは、繊細で柔らかなものだったに違いない。
五輪書ごりんのしょ』で説かれているように、木刀はこう持つとか、こう振るとか、こう斬るとか、速くとか遅くとか、そんなことに膠着・拘泥することなかれ。ただ、自在なるがままに任せよ。
 私が今回心がけていたのは、トリニティは言うまでもなく、虎口(親指と人さし指の間の水かき部分。龍宮道では親指も含める)を意識し、虎口で木刀を使うこと。言い換えれば、虎口から発する波で木刀を操作すること。・・・ただ、それだけだ。

 動画2では、空間を超えて波紋が響き合う、やや「呪術的」なシーンも登場する。
 ここへ来て、これまで曖昧模糊としていた「気合(術)」というものを、身体の実感と武術的効果を通じ、明晰に理会できるようになってきた。龍宮道では、理会と書く時は、それを自在に使えることを即・意味する。
 先人ら曰く、
「気合は発声することもあればしないこともある」
「気合とは、体と心が瞬間的に合致した状態である」
「気合とは、腹力である」
 ・・・・なるほど、確かにその通り、と今は素直に共感できる。ちなみに、誤解されやすいので述べておくが、上述の「発声しない(無声の)気合」とは、何の音もしないことではない。声として出さないだけで、体の中から発する音は聴こえる。
 私は現在、開口と閉口、二種類の気合を使っている。いわゆる阿吽あうんの呼吸と呼ばれるものだが、阿は開口で、カッ(喝)、ハッ、などと響かせ、閉口の吽は「う」を発する直前まで全身を造っておいて・それをレット・オフ(静中求動)すると発生する。
 気合を耳で「聴く」のでなく、全身で「感じる」ようにすれば、足下から頭のてっぺんまで、全身丸ごとに響いてくるのがわかるだろう。感覚が開かれている人ならば、トリニティにて発されていることも感じ取れるかもしれない。

動画2 2022.05.05 於:天行院

フルハイビジョン画質 02分21秒

 切り落としを適当につないだ動画を一つ、おまけでご紹介しておく。

動画3 2022.05.03 於:天行院

フルハイビジョン画質 03分03秒

 このシリーズの第一回でご紹介したムービーを改めて観ると、現在と比べて当時(約1年前)は、まだまだ粗削りで、時にかなり荒っぽく強引なところもあったとよくわかる(呵々大笑)。
 しかし、その後も怠ることなく日々修養を重ねていった結果、私のわざはさらに・・どんどん・・時として底知れぬほどに・・柔らかく、「ほどけて」いって、現在いまもなお、ほどけのプロセスは進行中だ。
 何もかも、レット・オフをかけ、ほどいてしまう。自分自身をも、ほどく。マイナスだけでなく、プラスもほどく。
 ほどけて、ほどけて、ほどけっぱなしになって、しまいには「ほどけ」そのものとなってしまう絶妙境を、最近はしょっちゅう・・・動画のような結構激しい場面を含む武術的シーンにおいてすら、味わうようになってきた。
 ニルヴァーナ(涅槃)とは、これか、と自然に理会できる。
 限りなく安らかで、限りなく充足している。楽である。楽しい・嬉しい・有り難い。
 このような「ほどけ様」(呵々大笑)の境地・体感は、ヒーリング・タッチにより、他者の心身へと映すこともできる。受け手がより柔らかく開かれていればいるほど、共振度は増す。
 聖杯の恩寵が注ぎ込まれ、和らぎの歓びが満身を満たす。そうした、聖杯の恩寵としてのレット・オフを分かち合い、響かせ合うヒーリング・セレブレーション(いやしの祝祭)、名づけて<龍宮会>を、今後は、創出・実践してゆくつもりだ。

<2022.05.18 竹笋生(たけのこしょうず)>