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高木一行
なにゆえにかくも「龍的」なのか・・・と、たった今、スライドショー1-4、1-5を観の目で観照(観賞)しながら、つくづく思った。注1)
舞い手も撮り手も、何も巧まない。龍が撮れるなどとは、もちろん思ってもみない。
ただ、龍爪掌を修し・舞う私の姿を、ヒーリング・アーツの流儀で写真撮影したらどうなるか、そういう実験をしてみただけだ。
その結果・・・・撮影後、ただちに現像・編集作業を進めつつ、私も美佳も思わず何度も叫び声をあげたのだが、・・・・龍神を思わせる姿、形がありありと、そこかしこに、写し撮られていた!
作品をご覧になれば、一目瞭然だろう。
私は我が目を疑い、妻は「面白いね!」と叫んだ。
ヒーリング・フォトグラファー:高木美佳の誕生である。
実は、ちょっと不思議なことも、帰神撮影中に起こっていた。
撮影を始めてまもなく、シャッタースピードが異様に遅くなったのだ。1度シャッターを斬ると、何秒間も開放状態のままとなってしまう。暗がりにライト一つで帰神撮影を執り行なっていたため、手元がよくみえず、何かのボタンかダイヤルを誤操作してしまったのだろう。
妻も私も絶対素人かつ成り立てカメラマンであるからして、細かい機械の操作法などほとんど知らない。ゆえに修正のしようもなかった。
だから、構わずどんどん撮り進めていった。
すると、物凄い作品が続々と顕われてきた。
龍爪掌の特殊な動きをオープン・シャッターで撮影する・・・と、普通の動きを同様にして撮った時とはまったく違うものが、写真画像の上に顕われてくるのである。
こうして撮るのだ・・・・と、龍神に教えられた、あるいは導かれたみたいな、そんな感じだ。妻も同じような感じを覚えたという。
そういう、言葉を介さない、スピリットとの生きた全身的交流を、私たちはヒーリング・フォトグラフを通じて、現在、頻繁に味わいつつある。これは、類い稀なる、素晴らしい体験だ。無上の価値あるもの、と私たちは感じている。
ところで、今し方、観の目でスライドショーと向かい合った際、私は(手をVサインのようにして)人さし指と中指の先で目尻・目頭と触れ合い、手の中心から凝集・拡散の作用を響き合わせ、「みる」ことのモード(様態)をシフトさせる、・・そういうわざを使った。
これもまた、ヒーリング・アーツの一手だ。
指先で柔らかくタッチする際、労宮(掌中央のくぼみの真ん中)を手の中心とみなして使う。つまり、労宮が、指先に命じて目尻・目頭へのタッチを促している、そんな風に感じてみる。
指先と目尻・目頭とが触れ合っている、その2点(厳密にはエリア)が、 顔全体の中でどういう位置関係になっているか、それを触れ合っている場所そのもので感じることも、是非試してみていただきたい。
指先を、交互にみ(ようとす)るのもよい。片方をみて、次にもう一方へと移っていく。その中間プロセスの方を、むしろ「重視」する。
そんな風にあれこれやっているうちに、「目が斜めについている」ことの重大な意味が、やがて腑に落ちてくると思う。
本当は斜めなのに、これまでそれを平面的な、真横のものと感じていた、そういう人が多いのではないか?
「それ」を仮想身体と、ヒーリング・アーツでは呼んでいる。
ヒーリング・アーツでは、仮想身体こそ人の諸苦の要因なりと唱え、そこから解放されるための道を具体的修法として提示している。
実際、仮想が少しでも解消されると、とても楽になる。そして楽しくなる。
仮想によって、随分重さや苦しさが慢性的に生じていたのだなと、そこから解放されてみて初めてよくわかる。
なくなると軽くなるから、今まで重かったことがハッキリ理会できる。
だが、なくなるまでは、それが重いことにさえ、気づかない。気づけない。
これが、仮想身体の厄介さだ。解放されるまで、自分が檻の中にいることがわからない。わからなければ、そこからの脱出を企てることもなかろう。
仮想身体とは、脳が別様の体を夢見ている状態だ。別の体が送っている別の人生を、脳が夢見ている。その夢の中では、体の感覚もあるし、感情もあるし、正しく判断して正しく行動することもできる・・・かのように脳は考えている。が、それらはすべて、現実[リアリティ]ではない。 注2)
無明、マーヤ、煩悩、エゴ・・・古人はいろんな呼び方をして、そこから解放される必要性を力説した。
ヒーリング・フォトグラフもまた、強力な呪術のように私たち人類を縛っている現代の仮想を破るための、21世紀式の新しい手だての一つにほかならない。呪術的に呪術に対抗しようとする、芸術・科学的な法。
各時代の仮想(人々の大半が共通して行なっている誤った体の使い方)はそれぞれ形態・意味が違うから、その時代時代に応じて新しい形を、修養法(仮想解除法)の方も採っていかねばならない。
手の中心に話を戻す。
その、手の中心である労宮を、柔らかく濃縮・凝集・濃密化させるよう、力として感じられる最低ラインを「下回る」力を、掌の中央にそっと入れる。超微細な粒子が密度を増すように。
実際には、「(力を)入れようとする」だけで充分だ。そういう、人の意識の本源的なレベル(意図、注意)を操作するインナー・テクノロジーが、ヒーリング・アーツだ。
凝集の一番はじまりにある感覚を、掌の真ん中そのものでダイレクトに感じることができれば、それをオフにして神経的反転現象を引き起こすことができる。
労宮は手の中心なので、そこに生じた凝集・拡散の作用は、直ちに手全体に反映されてくる。
すると、指先でそっと柔らかく触れ合っているだけなのに、その場所に文字通りの「全生命力」が集約してきて、まるで宇宙的な息が満ち引きを繰り返すような作用(ヒーリング波紋)が、手と身体各部との間で響き合うようになる。このようにして、手は全身と対応し合うのだ。
そういう状態を、ヒーリング・タッチという。
ディスコースの『ヒーリング随感2』(第9、16、20回)に関連記事があるから、ヒーリング・タッチや手の使い方についてより深く学びたい方は、ご参照いただきたい。実際の動きをムービーで観ることもできる(ムービーも観の目で向かい合えば非常に立体的でクリアーとなる)。
こうした作用を、目の両端から共振的に発生させる・・・と、「見ること(見るという行為)」そのものにヒーリング(たまふり)が起こる。眼球とそれにつながる視神経とが精妙に振るえている状態で「観る」という、まったく新しい「みえ方」が現われてくる。
任意の1本の手指から、上述のごとく微細粒子的な、海のよう[オーシャニック]な、波紋を生じさせ、全身に満たし、いくつも複雑に重ね、自在に織りなしていくことができる。
これを左右10本の指を使い、身体内で多層化・多元化する。
それが、龍爪掌だ。
・・・・かくして、龍が舞い降りる。
<2011.03.26 桜始開[さくらはじめてひらく]>
注1:スライドショーをよりディープにご覧になりたい方は、部屋を暗くして向かい合うと良い。また、ヒーリング・アーツ修養者による本スライドショー(前編を含む)の感想を、アーティクル『続々・観の目』と『続々々・観の目』に、研究用として収録しておいた。実際、あの人たちはよく「観て」いる。
注2:仮想身体についてより詳しい情報をお求めの場合は、ディスコース『グノーティ・セアウトン』などをご参照いただきたい。