◎前回に引き続き、第6回龍宮会の模様をお伝えしよう。
フルハイビジョン画質 03分42秒
我ながら面白いものだと思うが、前回の龍宮会以降約半年間、武術的な相対練修(他者と組んで稽古すること)を一切行なってなかったにも関わらず、前回撮った動画(『ヒーリング・リフレクション2』第三十一回、三十二回で一部を発表)よりも明らかに動きが円く、柔らかく、滑らかになっており、と同時に鋭さも増していて、モルディヴ巡礼の成果が大いに発揮されている。
単なる物見遊山ではなく、「巡礼」「修業」のために遥々モルディヴまで行き、「礼を通し」てきたわけだから、当然といえば当然なのだが、「旅が霊感を与える」という事実を改めて噛みしめている。
旅は人の視野を拡げ、人生を変える力を秘めている。
真理を求めて遠方より広島を訪い、龍宮道を学び・修することも、立派な巡礼の旅といえよう。
◎以下にご紹介するのは、これまで断片的に取り上げてきた心術の進化形態だ。今回の龍宮会の最中にも、期せずして同様の現象が顕われてきたが、全身のたまふり(縦波の超微細振動)を喚起した受け手に対し、後ろから背中に指先で「あ」「い」「う」と大きく記してゆくと(ノータッチ)、一瞬遅れてその通りに受け手の身体が動くから面白い。もちろん、事前の打ち合わせや練修はしてないし、これから何をする、ということさえ、受け手には一切告げ知らせてない。
フルハイビジョン画質 01分00秒
◎波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ、とはローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウス・アントニヌス(121~180)の言葉だ。
岩は、「なんて私は運が悪いんだろう。こんな目にあうとは!」などと嘆いたりしない。岩はむしろ次のように言う。「なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても私はなお悲しみもせず、現在に押しつぶされもせず、未来を恐れもしない」と。
マルクス・アウレーリウスは、「ストイック」の語源であるストア派哲学の系譜に連なる人物だ。無欲恬淡、倹約、素朴を重んじるストア派の教えや老荘の言葉が、刑務所生活には実によくなじむ。欲を捨て去るということについて深く極める上において、刑務所ほど適している場所は他にないかもしれない。
あれこれ考え、何かを欲しがっても、そこでは決して叶えられることはない。だから、いかなる思考であれ願望であれ、それが起こってくるたびごとに、その考え、願うこと、そのものを龍宮道のレット・オフ原理を応用して手放す。
そうやって来る日も来る日も、想いと望みを解体し続けていったところ、レット・オフ感覚の限界が感じられなくなった。
まるで無限の深淵が自らの裡に口を開けたかのようだ。どこまでもどこまでも、深く深く、意識を沈潜させていっても底にぶち当たらない。
こういう状態を「空」といい、「底が抜ける」と呼ぶのだろうか。
そうした深遠なるレット・オフを今でも自在に引き起こすことができるが、冤罪で刑務所に放り込まれたからこそ体得できた境地であり、「刑務所修業」の大いなる成果の一つだ。
「今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。いわく、これは不運ではない。しかし、これを気高く耐え忍ぶことは幸運である。」(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷 美恵子・訳)
「冤罪仲間」である桜井昌司さんの、「不運は不幸ではない」という言葉(思想)にも相通じる人生の真理だ。桜井さんは、布川事件(1967)の犯人にでっち上げられ、29年以上の歳月を獄中で送り迎えされた後、事件発生から44年も経ってから、ついに無罪の判決を勝ち取られた方だ(『ヒーリング・リフレクション』第二回参照)。
私自身が再審請求して無罪判決を求める運動を「しない」理由については、『ヒーリング・リフレクション1』第二十四回で詳しく述べた。
◎瀬戸内地方の冬の名物、デビラカレイ(カレイの干物)。一夜干しと違ってしっかり干してあるので、流水でもみながら骨を砕き、粗塩を軽く振って焼く。尖った骨の断片を口の中でよけながらむしゃむしゃバリバリ食べられるようになれば、あなたも立派な瀬戸内人である。
<2023.01.15 水泉動(しみずあたたかをふくむ)>