観の目

※[]内はルビ。

 亡き人の写真を、「観の目」でみてみるといい。
 それがあなたにとって愛しい人なら、あなたは思わずその名を呼んでしまうかもしれない。
 それくらい立体的に、超リアルに、すぐそこに本当に「いる」ように、被写体がみえるようになる。息遣いさえ感じられそうなほどに。
 いわんや、それが観の目によって写された写真であるなら、それを観の目でみた際の効果たるや、計り知れぬものがある。目(光)を通じて、カミがあなたへと働きかけてくる。
 ヒーリング・フォトグラフに写し撮られているのは、そういう、まったく尋常ならざる世界なのだ。
 
 このアーティクル(記事・草稿)と並行し、ギャラリースライドショー1-2『金秋』が発表される。「みる目」を養うための素材として最適だから、今回ご紹介する観の目を使い、スライドショーから発せられる一連の光学的情報(波紋連続体)を処理していくことをお試しいただきたい。
 ほどなくして、連想力が強烈に働き始める。芸術脳の活性化だ。こうした状態こそ潜在能力開発の鍵であると、多くの人が唱えている。
 自然界の様々な形と色が、超時空生命体(精霊)の形をとり、鮮烈な電気的色合いを帯びながらダンスを踊っている様が・・・・・、やがてあなた方の目にも映ってき始めることだろう。
 晩秋をことほぐ、自然界の祝祭。
 金色燦然[こんじきさんぜん]たる、豊穰な生命[いのち]の実りが、世界の隅々にまで満ち充ちている。金の秋。

 そういった光景が、やがて、敢えてみようとせずとも、あなた方の眼前でなまなましく展開されるようになる。観の目を使えば。
 私は、抽象的な概念や空想・妄想、あるいは詩的イメージなどについて述べているのでない。私が語っているのは、生きたナマの体験だ。

 観の目の開発を通じ、無上の<身体:脳>内ワンダーランド体験を味わうことができる。すでにできるようになった人がたくさんいて、新しい人生(生きること)の質を楽しみつつある。
 ただし、精霊(神々の)世界を覗く行為は、エキサイティングで実り多いものであると同時に、時として甚だしい魂の危険ともなり得るという警告が、古来より様々な文化で語り伝えられてきていることは、皆さんもよくご承知だろう。
 ニーチェいわく、「人が深淵をみつめるときには、深淵も私たちをみつめ返す」と。まったくその通りだ。
 ゆえに、超越的な神明世界のびっくり箱(玉手箱)を開ける時には、くれぐれもご用心を。知恵と勇気と落ち着きをもって事に当たっていけば、大丈夫だ。

 それでは、観の目の実習に入る。
 見ることの新しい次元を啓[ひら]くには・・・・・、
 まず目をやわらかに見開く。四方八方へと円く。
 次に、画面中央の1点へと視線を集める。
 さらに、見開きながら、1点を見つめ、両者(見開くことと見つめること)を拮抗させる。
 しかる後に、見つめることだけをオフにする。

 これは、「見る」という行為におけるレット・オフだ。つまり、「視点」を画面中央に定め、そこに「視線」を集中させ(見つめ)、しかる後に、視点は一切動かさず((目を動かしたり、まばたきせず)、集中(凝集)させた視線のみをレット・オフする。レット・オフについてご存知ない方は、ディスコースで具体的体得法を基礎から詳述しているのでご参照いただきたい。
 これ以上つけ足すことは、何もない。
 まず、指で顔とよく触れ合いつつ、上下それぞれのまぶたが開く方向を、ヒーリング・タッチでしっかり確認する。
 ヒーリング・タッチがわからない人は、まぶたやそのまわりを指の腹で軽く柔らかくこすり、その「こすり」「こすられる」感覚をロールプレイングゲーム的に、顔と手で交互に・あるいは同時に、最初はじっくり時間をかけながら感じ合っていけばいい。「触っている」のか「触られている」のか、渾然一体となってわからなくなる状態が、鍵だ。興味深いことに、ムツゴロウさんこと畑正憲氏も、この「触っている感覚と触られている感覚が融合した意識状態こそ、動物たちと触れ合う際の極意である」と述べている。それにより、動物たちと心や生命が通い合うような奇跡的な瞬間が起こるのだ、と。
 レット・オフやヒーリング・タッチについてご存知ない方は、ディスコース(『たまふり』など)で具体的体得法を基礎から詳述しているのでご参照いただきたい。

 まぶたのあちこちを指で柔らかく押さえておいて、目を見開こうとするのも良い。
 触覚に基づき、まぶたの位置と動きの向きとを肉体の3次元空間内でマッピングする。こういう風にする(なる)ことを、ヒーリング・アーツでは、「体をその場所そのもので感じる」とか「その場所の意識(存在感)が目覚める」などという。
 そのようにした上で、改めて「見開く」・・・と、本当にそれぞれの目が同心円状に丸く開くから面白い。ご存知だったろうか? 目とは元来、(体感的には)真ん丸に見開かれるものである、という事実を。上下に開かれる、のではなく。
 さらに老婆心ながらつけ加えておくならば、「目は人間の顔に斜めについている(真横に水平に、ではない)」。

 顔の曲面に沿ってまん丸く見開くことをしながら、視界中央の適当な1点(小さなもの)をじっと見つめるようにしてみる。と、見開くことを、内側にギュッと引っ張り・引き絞る作用が、見つめる(見る面積を同心円状に狭くしていく)ことによって生じるのがわかるだろう。
 逆に、見開こうとすることに注意を向けると、見つめることが拡[ひろ]げられようとする。
 つまり、これらは輻輳(ふくそう:求心作用)と輻射(ふくしゃ:遠心・放射作用)的な相補対抗関係にある。
 両者を響かせ合っておいて、見つめることだけを、ふっとオフにする(スイッチを切る。手放す)。そのまま、オフにし続ける。
 すると、そのオフが、「見開くこと」の中に流れ込み始める。あるいは、見開くことが、オフ感覚をどんどん飲み込んでいく。
 これが、「観の目」だ。
 視点は決して動かさないが、視界に映るいかなるもの(部分)も注視しない。つまり、部分を見ず、全体を均一に観る。すべてが、ただあるがままに目に映っているようにする。最初、古い習慣でつい何かを目で追ってしまうかもしれないが、そんな時はサッサっとあちこちに視点を移動させ、そして再び視点を中央に据えることで、部分を全体として統合する。

 普通の「見る」ことに対して、「観る」と書いて区別する。
 観の目を引き起こす方法はいろいろあるが、ヒーリング・アーツではオフ作用を積極的に用いる。このオフについては、ヒーリング・アーツの核心に関わる根本事であり、簡単に略述することはできないため、興味のある方はディスコース『たまふり』などでご研究・ご研鑽いただきたい。

 最初は、目がヒリヒリするかもしれない。じっと長時間まばたきしないでいると、涙がどんどん出てくるだろう。が、問題ない。
 目に蓄積されたブロック(いわゆるツミ・ケガレ)が浄化されている証[あかし]であり、この修法をやり終わった後は、目がスッキリする。目が気持ちよくなると、全身さわやかになる。これは、毎日、何度も実践することで、実人生に直ちに大きな恩恵が現われてくる修法だ。ものごとを、曇りなき目で、あるがままにみられるようになる。
「まばたきをできるだけしない」ことが、観の目への切り替えを成功させるための重要なポイントとなる。よくよく研究されたい。

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 観る、ということに対し、ヒーリング・フォトグラフの道を自覚・開示された今日[こんにち]ほど、真剣になったことはかつてない。
 以前とは比べ物にならないような視覚の深み、鮮烈さ、生命感を、最近の私は如実[にょじつ]に感じるようになった。 観の目を長年真剣に・継続的に実践してきた成果、というよりは、ヒーリング・フォトグラフを通じて短期間で啓発された結果、と感じる。
 いずれにせよ、これは人を深くいやす力を持つ「観方[みかた]」だ。
 眼球が非常に深くリラックスしながら細やかに振るえている状態でみる、ということ。
 そして観の目とは、できるかできないか、ではないということも、よく覚えておくといい。
「すごいみえ方が味わえるようになった」と躍り上がって喜んでも、まだまだその先がある。私のこれまでの経験によれば、どうも際限がないように思える。常に新しく、鮮彩・・・・これは、実に驚くべきことだ。
 私はこの十数年、毎日毎日、STM(自発調律運動)として聖性顕現的[ヒエロファニック]に顕われるヒーリング舞を舞ってきた。注1)その間、同じ動きの単調な繰り返しを、ただの1度として感じたことがない。
 毎回毎回、より高度に・精妙になっていく。
 私は50歳になったが、身体感覚と動きの精妙化は、今も留まるところを知らず、日々粛々として、賑々[にぎにぎ]として、進行中だ。
 老いれば老いるほど、聖なる香油[オイル]をさすみたいに、熟達・精妙化していく不思議な力の使い方というものが、この世にはある。そうした力の使い手を、 私は幾人も知っている。70歳、80歳を越えてなお、壮年の屈強な師範たちを子供扱いにする武術の達人たちと、私は実際に出会い、教えを受けたことがある。
「老」という言葉の意味を肯定的ならしめる、この特殊な力の秘密を、私も独自の道を通じて(再)発見した。これは、「老い」を迎えようとする者すべてにとり、大いなる福音(ふくいん:喜ばしい知らせ)となり得る知識・技術ではなかろうか? 老いることによって、より深まり、熟達する能力を磨く道。
 そして忘れてならないことは、誰もが必ず老いていく、という冷厳なる事実だ。朝[あした]に紅顔ありて、夕[ゆうべ]には白骨となる・・・・。
 万物、として虚空の海より顕われいでし生命の本質[エッセンス]の波紋たちが、虹色の光を通じさんざめき合う神秘の光景。それを私は、ヒーリング・フォト道を啓発されて以来、頻繁に目撃している。
 
 ヒーリング・フォトにダウンロードされた光学的情報を観の目で読み込む・・・と、脳:身体内で神経的な活性化が起こる。いわゆる「たまふり」だ。各フォトにより、それぞれまったく異なるたまふり作用(マナ)が発生することも興味深い。
 これはいわば、近未来の超宗教的な(宗教臭さを排除した、組織宗教とは無関係の)御札[おふだ]といえるかもしれない。あるいは、知的興奮と心身の健康感をもたらすヒーリング・ゲーム。カミを遊ぶこと。21世紀の神楽舞。・・・いろんな呼び方ができる。
 観の目という言葉は、宮本武蔵の『五輪書[ごりんのしょ]』から採ったものだ。観の目は、武術家や療術家、あるいはハンターなどが使う観法(目付法)だ。
 観の目を会得するための修法群を、私が主宰するヒーリング・ネットワークでは、強力な目の女神であるメドゥーサにちなみ、<メドゥーサ修法>と呼んでいる。注2)
「観る」(超立体視する)能力を養えば養うほどに、さらに凄いもの・世界が、ヒーリング・フォトグラフそれ自身の裡[うち]に重層的・複層的に「みえて」くる。超精細なる情報圧縮。岡本太郎のいわゆる「非情の空間」「真空性」。
 こういう観方[みかた]は、洞察力とも密接な関係を有する。観の目の稽古により、ものごとの奥深くを洞察する力が、自然と身につく。
 そういう風に、実人生において直ちに役立つ「いいこと」がいろいろあるから、観の目という新しい観方を養うことには、その修得難易度が比較的低いこととも相まって、大いなるメリットがあるといえよう。
 観の目を鍛えてカミの世界をみることができるようになれば、やがてカミと交信することさえ不可能ではなくなってくる。そうした驚くべきカミ体験をし始めた人が、すでに何人も出ているのである。
 ただし、私がここで言うカミとは、共に舞い踊る神、裡なる生命の流動波紋のことだ。どこか外側にいて人間のように考え・振る舞い、人間界にちょっかいを出すような人格神とは、根本的に違う。

 スライドショー1-2<金秋>を観照(注3)した人たちが、次のような感想を寄せてくれた。たくさんあるので全部は載せ切れないが、いくつかランダムにピックアップしてご紹介しよう。

◎観の目でスライドショーを拝見いたしますと、突如として写真の粒子性、空間性が増して、写しだされたものが活き活きと迫ってきました。特に幹や紅葉した葉、緑の葉が複雑に折り重なっているような写真では、普通ではありえないような複雑な空間に入りこんだようで非常に楽しくなります。一枚一枚が違った世界、表現で、その切り口が本当に鋭く感じました。<R.S. 男性・神奈川県>

◎スライドショーを拝見して、写真が変わっていく度にハッとさせられるような美しさがあり、葉っぱの1枚1枚が輝きを放っていて、子鹿の毛並みも1本1本が繊細に感じられ、自然の存在感が圧倒的に迫ってきました。観の目を使って拝見する度に、空間の奥行きや拡がりが増していき、その度にそれまで観えていなかったものが観える驚きがあって、何度観ても飽きません。
 拝見させていただき、ありがとうございました。<N.S 女性・神奈川県>

◎あまりの美しさに、言葉を失いました。1枚の写真の中に、空間がスッポリ切り取られてしまったかのような、不思議な感覚に襲われました。葉の擦れ合う音すら聞こえてきそうなほどの臨場感。細かい粒子が写真の中で躍っていて、観ているだけでたまふりが起こってくるほどです。
 ヒーリング・フォトのバージョンアップを実感しました。ありがとうございました。<S.M  男性・宮崎県>

 ・・・・これらは、ヒーリング・アーツを学ぶ中で、観の目を数年あるいはそれ以上に渡って訓練してきた人々による報告なので、まったくの初心者が同様の体験をいきなり会得するのは、ちょっと難しいかもしれない。
 しかし、ちょっと練修すれば、大抵の人ができるようになる。感じられるようになる。わかるようになる。

<2011.03.08 蟄虫啓戸(すごもりむし・とをひらく)>

注1)STMはヒーリング・アーツ独自の用語の1つで、Spontaneous Tunig Movementの略。身体丸ごとの自発的意思として、心身調律的にあらわれてくる自然運動。STMに関して詳しくは、ディスコース『ヒーリング・アーツの世界第4回第5回などを参照のこと。
注2)メドゥーサ修法について詳しくは、『ボルネオ巡礼:2009』や、単行本『奇跡の手 ヒーリング・タッチ』等を参照のこと。
注3)ヒーリング・フォトグラフでは観賞の代わりにこの書き方を用いる。単に一方的に眺めるだけでなく、自らの内的意識状態と対照させつつ観ることを指す。