Healing Discourse

ヒーリング随感4 第16回 弱者の道

◎龍宮拳は、オフのみを使い、無念無想、無我をもっぱらとしながら、試合する。それは、いわゆる「相抜け」を基本とする、・・・らしい。おそらくこれまで存在したことのない暴力衝動の調律法となるのではないか。

◎龍宮拳はどれくらいの体力があればできるか、参考までに私の現在の状態を簡潔にご報告しておく。
 2002年の長期断食の際、「力を抜く」(再び入れられる)だけではまだまだ不充分で、「力を捨て」(完全に手放す)ない限り、「力を越えた力」へと至ることは不可能と気づき、爾来[じらい]今日まで力を放棄することにせっせとこれ努めてきた。
 重いものは(どうしても必要な時以外)決して持たない。激しい運動はできるだけしない。時折断食して筋力を落とし、元に戻さない。
 聴くところによると、アラブの王子は肌の色が白くて、いつも供の者たちに荷物を持ってもらうから、まるっきり力がないんだそうだ。私も、そのアラブの王子みたいになるべく、努力した。
 積年の努力が実り、今ではそばをいただこうとして箸で持ち上げても、「重い」と感じる(ことがある)ようになった。 
 強い風が吹くと、吹き飛ばされて転がっていくように感じる(ことがある)。
 国民全部が半病人といわれるようになって久しい日本国の、栄誉ある市民[シティズン]に私もついになれたかと感無量だ。
 もちろん、他の誰に対しても、私のマネをするようお勧めしているわけではない。誤解する人などないか、あるいは非常に少ないとは思うが、一応念のため明記しておく。
 私はただ、かつて断食中に観た透徹したヴィジョンを、実際に確かめたかっただけだ。
 何か素晴らしいもの・・・、私一人のみならず、人類全体にとっての福音となり得るような偉大な可能性・・・を、私は直感した。その直感に、私は素直に従った。

◎というわけで、現在の私の体力は並、あるいはそれ以下である。これは決して誇張ではない。
 ここまでやった揚げ句に、払った犠牲を補ってあまりあるものを得られなかったとしたら、それは「不毛」であり「絶望」であろうことは、想像するに難くない。まあ、莫迦[ばか]、・・・だ。
 私たち夫婦がよく口にするのは、Game of Deathという言葉だ。笑って死のゲームを話題にできるのだから、私たち夫婦も変わり者といえる。
 命がかかったゲーム。
 失敗すれば、死または深刻な障害や病に倒れる可能性が高いが、そのスレスレでフライバイするように方向転換できれば、人間の肉体的・精神的あるいは霊的方面における新たな発見や洞察が得られる・・・かもしれない(私の場合はそうだ。が、誰に対してもいかなる保証もできない)。
 短期間の死のゲームもあり、私が過去10年間やってきたような長期に渡るものもある。

◎そうやって力や技など、これまで蓄積してきたすべて、及び継続の努力と意思とを、自らの裡へ向け捨てて捨てて、捨て切っていく・・・プロセスで私が出合ったものこそ、ヒーリング・アーツであり、龍宮拳だ。
 筋骨隆々とした力自慢が、おそらく勘違いによるものだろうが、女性性や柔らかさを強調する私の元に学びに来ることが、以前は時折あった。
 その1人から聴いた話だが、彼は建築現場で資材を人力で運びあげる仕事に長年ついており、1度に150キロの荷を背負って階段7〜8階をのぼりおりするようなことを毎日ずっと繰り返しているという。
 そういう人物たちと、普段はちょっと重いものを持ち上げるのでさえおっくうに感じる私が組み打ち合う・・・と、何と相手の方が勝手に床に崩れ落ちていくのだから(「圧倒的な、物凄い力だ」と言う者もいた)、ヒーリング・アーツによる力の出し方がいかに効率的か、よくおわかりになると思う。激しい力がぶつかり合っている場面でも、私自身は力を入れた感じがほとんどしていない。
 ふにゃふにゃであるのとは違う。
 しかし、一般的な「力を能動的に入れる」感覚はまったくなく、身体内面へと無限に引っ繰り返り続けていくがごとき、反転のレット・オフ感覚があるのみだ。上半身は特に、虚になっている。もも(上脚)もそうだ。
 ただし、腰腹間の球状緊張は、ぎゅーっと高まっている。体内の水の圧力の、三次元の全方向からの同時的集約。体中のあらゆるところの力が、「そこ」に球状に還元圧縮される。
 動きは、身体の外(皮膚面の外側)に一切漏れ出ない。体の外へ向けて体を使う・移動させるという感覚が、龍宮拳で動くとなくなる。動きは、皮膚で囲まれた体内のみで流動・循環する。

◎そういえば、関東地区のヒーリング・アーツ同好会で以前こんなことがあったという。
 ウェイトトレーニングで鍛えた巌[いわお]のような体躯の某氏は、これまでスポーツをしたことさえほとんどないという小柄な女性とペアを組み稽古していた際、いくらヒーリング・アーツの術[わざ]が優れているといっても、圧倒的体力差があれば効くまい、と考えたのだそうだ。そこで、わざと意地悪く強い力で手首をつかみ全力で踏ん張って抵抗してみたところ、あっけなく床に転がされてしまった。その女性がヒーリング・アーツ初心者であったことも、彼にとってかなりショックだったらしい。

◎龍宮拳に委ねれば、体力がないはずの私が、日々肉体労働で鍛えている壮漢らを何人も相手にして、平然として余裕綽々[よゆうしゃくしゃく]としていられる。これは考えてみれば凄い(=もの珍しい)ことかもしれない。

◎龍宮拳を始めた頃からやたらとクリシュナムルティが読みたくなり、今、じわりじわりと読み進んでいるところだ。「武士道とは死ぬことと見付けたり」の心境を心ゆくまで味わいたい人には、クリシュナムルティがお勧めだ。
 最初は脳が拒絶反応を起こし、書いてあることの10分の1も理解できない状態に陥るかもしれない。特に、何らかの道、流派、流儀といったものに深く関わっている人はそうだろう。クリシュナムルティの言い分を認めてしまったら、これまで自分が情熱を傾けエネルギーを注いできたことが、本質的に無意味であり、無駄であり、そればかりか世界の混乱をいや増すことに手を貸し、自らの内面に大いなる葛藤を生み出しただけだった・・・・????・・・ということに、冗談抜きでなってしまいかねないからだ。

◎クリシュナムルティを読みながら、レット・オフがここでも通用することを発見し、斬って斬って斬りまくられて大いに意気消沈すると同時に、大いに意を強くしてもいるところだ。
 コツは、何かの対象ではなく、感じ、考え、悩み、苦しみ、楽しんでいる「自分自身」を意識しながら、それをどうにかしようとする意図を一切持たず、非難も弁解もせず、消そうともせず、良くしようともせず、ただ一指禅・・・だ。
 ちょっと練修すれば、「存在感」を指によって張り、レット・オフを共振させることができるようになる。ごく繊細な、微細粒子的な柔らかな働きのみでいい。その方が、より奥深くまで精細に「効く」。
 自分を強調→レット・オフしていくと、間もなくクリシュナムルティの言っていることが、「わかり」「できる」ようになり始める。
 クリシュナムルティが「わかる」人は少なくないと思うが、「できる」人となると非常に少ないかもしれない。
「人が物事にアプローチするやり方とちょうど直角の方向に、私の教えはある」とクリシュナムルティは言う。その、直角の次元へ実存的に移行することが、レット・オフを使えば、実際に「できる」のだ。

◎・・・・というわけで、私は力を徹底的に、本気で、真剣に、命をかけ捨て続ける(ただし、内面的に。そこ以外、実際に捨てられる場所はない)ことを通じ、力を越えた力、超越的な力の源泉へとアクセスすることが、ある程度まで自在に、任意に、できるようになった。
 ある程度まで、というところが私の未熟をあらわにしているが、正直にありのままを、このディスコース・シリーズではずっと語り続けてきた。
 私が長年に渡り力を捨て続けねばならなかったのは、それらが真の力が発現するための障害であったからにほかならぬことが、今になってよくわかる。
 龍宮拳は、身体の不自然な認知、使い方を自然にいやす調律法の役割も兼ねている。つまり他の人は、私のように不自然な体の使い方によって得た(不自然な)力や技を無理して最初に捨て去る必要はなく、龍宮拳の教えに1つ1つ取り組んでいく過程で、不自然さが自然なものへと自ずから調律されていくようになっている。 

◎私は、型とか規律とか、そういうものについて語っているのじゃない。そういうものを批判しているわけでもない。誤解なきように。
 私はただ、型や規律、訓練によっては得られないものへと至るための鍵、ヒントとして、ディスコースのこれら諸々の言葉を、ずっと綴ってきた。

◎龍宮拳は弱者への福音だ。
 強い人たちは、強者のみが頭角を現わせる様々な既存の道やシステムがすでにたくさんあるのだから、どうぞそちらで存分におやりいただきたい。
 私は、日本の最高学府とされる大学にて、新入生全員に対し執り行なわれるエリート意識の植え付け・洗脳儀礼(それ以降、他大学の大半の学部生は「格下=被支配民」と自然に認知されるようになる)を拒絶し、命からがら逃げ出した時(呵々)、弱者の側に立って「支配」と戦う生き方を意識的に選び取った。
 だから、私の祈りに応えて顕われるマナ(修法)は、どれも皆、誰が修しても同じように効き、同じような感・動がある。私自身が弱者となることで、弱者でもできる優れた武術(心身錬磨と護身のわざ)が顕[あら]われてきたのだと思う。
 女性でも子供でも、中高年者でも虚弱者でも、・・・できるだろう。いや、きっとできる!

◎かつて熱烈にあこがれ、祈り求め、その後棄ててしまって長年顧みなかったもの(武術の可能性)が、今や、突如として、新大陸が海中から浮上するかのごとく、現実化しつつあるわけだが、現に今ある「これ」は、私がかつてあれこれ想像の限りをたくましくしてイメージし、考えたものとは、まるで違っている。まったく、思いも寄らなかったようなものだ。
 が、できるようになって改めて考えてみると、実に合理的だ。
 私は、武術の世界に足を踏み入れた当初より、「力を抜くこと」が極意であると、先達より教示されてきた。
 力抜きはずっと心がけてきて、腕や肩、脚など任意の箇所で、人が驚くほど力を抜き切ることができるようになった。が、それを「水」とか「水圧」という観点からとらえたことが1度もなかった。
 力は徹底的に抜くが、それは徹底的に力を入れるためであると、複数の先人の言葉を真に受け、信じ込んで疑いもしなかった。

◎力を抜くとか入れるとか、そんなことに龍宮拳はまったく頓着しない。
 龍宮拳はただ、人体と心の主体を水とみなし、その水に波紋を起こすわざを示す。
 つまり、力を抜くのではなく自分自身が水そのものとなり、力を入れるのではなく、水に圧力を生じさせる。
 そのように頭で考え、(脳が)体に命令する回路を使うのでなく、身体そのものが「水」に目覚め、波紋を舞うよう、お膳立てする。

◎かつて、沖縄に本部御殿手[ウドゥンディ]宗家・故上原清吉先生をお訪ねした際、先生は言下に、「自分自身の武の舞を探し、舞いなさい」と力強くご教示くださった。
 ある夏の朝、沖縄本島中部の中城[なかぐすく]城趾。宜野湾を見下ろす絶好のロケーションにて、目に染みるような鮮烈な緑の芝生を背景に、上原先生直伝による高弟たちへの特別稽古が執り行なわれていた。
 当時83歳の上原先生の、舞うが如くの動きは、優美でありながら、物凄いパワーをも秘め隠しているように観えた。
『これを越えねばならない』と、心中で固く決意したことを、今でも鮮やかに、若き日の矜持と共に、記憶再生できる。随分後に、若き岡本太郎がピカソの絵と出合って豁然として自らの道を開示された際、私とまったく同じように、相手の途方もない巨大さを認め、十全に敬いつつも、「この人(によって創り出された様式)を越えねばならぬ」と強く決意したということを、彼の著書で知った。20世紀における最も重要な芸術家たちの1人とみなされている岡本太郎と、50歳近くになるまで芸術の何たるかさえ解し得たことのなかった大鈍才の私とを、決して引き比べようとしているわけではないので、一応念のため。誰も誤解・曲解する人はいないとは思うが。

◎師範クラスの者らが、必倒の勢いをもって全力で蹴っていっても、突いていっても、あるいは恐ろしげな青竜刀2丁で斬り込んでいっても、上原先生の絶妙な足さばきにより、ふわりと死角に入られ、崩され、あるいは折り畳まれ、転がされてしまう。
 様々に武器を換えながら、あるいは素手対素手で、または武器vs素手(上原先生)など、全力でぶつかり合う激しい指導を、延々6時間、毎週1回執り行なっていらっしゃる、とのことだった。
 そういえばあの時、香港製の九節鞭(鋼鉄製の鞭状武器)を持参して上原先生に恭しく献上し、それが思いの他先生を大喜びさせ、上機嫌になられて、こちらが恐縮するほどあれこれ親身になってご教授くださったのだった。 
 先日、 随分久しぶりに、上原先生の動き(ビデオ)を観の目で観ながら、観取り稽古させていただいた。
 今の私が観ても、やはり素晴らしい。
 足元にも及ばぬ。
 そのことが、何だか、途方もなくうれしい。
 今改めて観ると、先生のわざは結構厳しい。尊敬と憎しみを分ける微妙な境界線ぎりぎりまで、いやったらしいほど徹底的に、真剣に、斬り込み、巻き込んでいく。
 そういえば、女性弟子の1人から当時聴いたところによれば、(関節を極めて激痛を起こすような術において)「上原先生は女相手でも一切手加減されない」とのことだった。

<2012.05.06 立夏>

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