※[ ]内はルビ。
パラオへ、妻の美佳と共に、巡礼に行ってきた。
日本から南下すること、およそ2千キロ。直行便ならかなり近い。
かつて、日本の委任統治下に置かれたこともある(その是非はさておき)、我が国とは特別な縁[えにし]で結ばれた国だ。
私たちヒーリング・アーツ修養者にとり巡礼とは、いやし(生命[いのち]の本質)のわざと叡知を、祈り求めて旅することを意味する。
五感を全開にし、祈りと目覚めに満ちて旅行く。昔日の求道者・修行者たちが、寺社・聖地などを経めぐりつつ、心胆を錬り鍛えたように。
旅という体験を、全身全霊で歓喜しつつ生き切ること。それが、私のいう巡礼だ。生ぬるさを一切残さない。徹底的に旅する。
同様にして、宗教の枠組みを超え巡礼する者たちの数が、今、地球規模で増大しつつあるようだ。
トータルに旅する時、私も妻も、まるで神話的な旅を現実に生きるがごとき、不可思議・玄妙な感覚を、しばしば感じる。
符牒的出来事が、線ではなく空間レベルで次々と出来[しゅったい]し、結ばれ、あたかも「導かれ」ていくかのよう。
斬新な芸術的インスピレーションや、新しい創作アイデアが次々と湧き溢れてくる。
心身の切れ味が、日を追うごとに円熟味を増していく。
世界への切実な問いかけ・・いかにして生きるべきか、いかにあるべきか・・に対しても、納得いく<応[こた]え>が、各自相応の形にて示される。
これが、ヒーリング・アーツ流巡礼の醍醐味だ。
パラオ巡礼の霊的旅路のエッセンスを、風変わりなスピリチュアル旅行記の体裁を借り、これより皆さんと分かち合っていきたいと思う。
まずは、プロローグ的意味合いを込め、スライドショーを一幕。
パラオ滞在中ずっと宿泊した、PPR(パラオ好きの間ではこれだけで意味が通じてしまう。パラオ・パシフィック・リゾート)の目の前の、プライベートビーチにてヒーリング撮影。
私たちはカメラで撮影する際も、ヒーリング・アーツの原理に基づき、手足や目を働かせている。
要は、全身全霊で、撮影するということ。これがヒーリング撮影だ。別名、帰神[きしん]撮影法。
すると、不思議なことに、世界の精霊的な深層が、写真画像に映し出されてくる。万物の内面にある聖なる光が、ぼおっとにじみ出てくる。
パラオ到着の翌朝早々、妻と共に、「入水[じゅすい]」。
いざ、シュノーケリングによる海中巡礼&ヒーリング撮影を開始せん・・・とした。その時、ギンガメアジの若魚の群がどこからともなく出現。水深は2メートル前後だったろうか。
私たちの前を、後ろを、横を、時にぐるりを取り囲みながら、流れ・移り・変わり、めまぐるしく形を換えつつ、太陽の光を映し・返し・はね散らかして、鮮やか・華やかな龍宮舞・3Dレヴューを繰り広げていった。
歓迎され、歓待されているのだと、頭だけでなく総身で感じ、ビリビリ繊細に細胞レベルで振るえた。この状態をヒーリング・アーツでは感・動と表記する。巡礼地とのチューニングが合ってくると、こうした現象がいつも起こる。
無上の歓びが、熱い血潮に乗って全身を駆け巡る。と同時に、頭はスーッとクールに冴え渡る。いわゆる頭寒足熱の態勢。
そのように満身で感・動しながら、ヒーリング撮影していった。
今回初めて、元来陸上で使うカメラを海中に持ち込むという暴挙的試みを、敢えてしながら。
1点に集中せず、視野を広げて柔らかく全体を視界に納める視覚モードを、観[かん]の目という。この観の目を使ってヒーリング・フォトグラフをごらんになれば、3D空間(そして、その空間には当然、水が満ちている)内の魚1匹1匹の位置関係を、ハッキリ知ることができるだろう。
その魚たちが織りなす模様は、刻一刻、形態を変えながら流れ行く。移り変わる。さっと散じ・開き、また寄り添って群れをなす。
魚の群が体のすぐ下をくぐり抜けていったり(魚の川の上を飛ぶかのごとし)、右に来たり左に行ったり、あるいはこちらに向け押し寄せ・分かれていってみたり・・・。
その魚群の生きたパターンに、きらりきらきらきらと太陽の光が反射し、踊り、まるで化学的火花が飛び交う神経ネットワーキングみたいだ。
群れの意識(集合的意識)とでもいうべきものを、私は強く感じずにはおれなかった。
海と人との、原初からの壮大なる物語が、抽象波動として語られていく。
人よ、汝らを認め、歓迎する。が、ゆめゆめ傲[おご]り高ぶるなかれ。・・・という海の女神からのメッセージのごときものも、併せて感じられた。
波動的コミュニオンと私が呼ぶ体験。
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「観の目」を開き、育て、熟させるための手法はこれまでいろいろご紹介してきたが、初めてその名を聴いたという方には、まず「かしわ手(両手を打ち鳴らす神道の基本作法)」をお勧めする。
人のあらゆる営為を祈りと化すヒーリング作用が、かしわ手には秘められている。宗派とか信条、ライフスタイル等とは一切関係ない。
大いに活用しないとしたら、人生の損失だ。
以下の帰神フォト(静止画像)をクリックして開き、普通に見ながら、両手を威勢よく打ち鳴らす。
パン! と大きな音が響き渡るくらいでないと、効果は薄弱となってしまう。くれぐれも注意が必要だ。
かといって、おっかなびっくりでこわごわ、無理やり、大きな音を立てようとするのもダメだ。あくまでリラックスしながら打つ。
要は、波長の問題だ。両手である種の衝撃波を生み出し、自分自身に響かせる。すると、超微細な粒子レベル(細胞レベル)で、「ほどけ(繊細な内面的リラクゼーション)」が生ずる。
ホドケは、ホトケの語源ともなった重要な言葉だ。仏教(ホトケ=ホドケの教え)と縁深き我が国の民にとり、深く探求する価値のあることがらではあるまいか?
初心者に対してはもう一つ、手首の角度に注意することを促したい。
これについては、『グノーティ・セアウトン』でやや詳しく述べたから、ここで改めて繰り返すことはしない。が、ご存知ない方のために原理を簡単に要約するなら、「手首のところで手は腕に斜めについている。腕から斜めに、手は生え出ている」、ということになる。これは解剖学的事実だ。
ところが、大抵の人は腕から手首、手と、「真っ直ぐ」になっているものと、無意識のうちに思い込んでいる。これを仮想身体といい、心と体の統一を著しく阻害する主要因となるものだ。
手首は真っ直ぐ、という仮想に気づき、腕から斜めに生えた手でかしわ手を打つ。
すると、まず、「手を打つ」という感覚そのものからして、 これまでとはまったく違ってくる。
当然、音質も変わる。
そういう音を目(眼球や視神経)に響かせてこそ、見ることそのものが根底から変わる契機ともなり得よう、というものだ。
何度でも、拍手するみたいに、連続して打てばいい。ただし、その間、終止目をリラックスさせ続け、まばたきをしないように。
具体的やり方は、こうだ。
まず、両手中指先が正確に前を向くようにして、両手を合わせる。両腕は床に水平。大概の人は、これを自然な状態と仮想している。
この状態より、手首から先(手)を水平に保とうとする意図(コマンド)を、強調し、そのコマンドをオフにする。(手を水平に)保とうとする意思の原点を、微細粒子レベルで検知し、オフにしてしまう。
手を合わせたまま、手首から先を、だらんと垂らすつもりで。
すると、手首の角度は「自然に(=自ずから)」斜めとなる。
手首から先が、ちょっと斜め下を向いて止まる。
それ以上下へは、余計な力を入れなければ行くことはできない。
それ以上上にするためにも、実は余計な力を使わねばならない(!!・・・各自確認せよ)。
一番楽で、自然なのは、手先が斜め下を向いた状態だ。
その形、勢い(力の入れ・抜き)を常に保ちながら、両手を打ち合わせる。
衝撃波が起こる瞬間、手の角度が旧態へと、無意識のうちに戻ろうとすることが、しばしばある。
よくよく注意し、打ち合わせの最初から最後まで、ずっと一貫して、手首から先をぶら下げ、斜め下に向け続けておくこと。これがこの修法を成功させるための要訣となる。
正しく修法に則れば、たった1回でも、「見る」ことから「観る」ことへの変容が、眼前でさあっと鮮やかに起こり始める。
観ている画面がぐぐっとリアルになり、立体感が異様に深まり、空間を満たす水の質感までが感じられるようになってくる。
魚の1匹1匹が、真空中で奇妙に静止し、浮かんでいるかのようだろう。陸上では絶対ありえない、個体間の位置関係だ。
1匹1匹を絞り見ることから、より広く視野を緩め広げていけば、全体のパターンが線や面の複合体として観えてくる。
その上で、改めてスライドショーと向かい合い、適宜かしわ手を打ち鳴らしながら、「観る」といい。
部屋を真っ暗に、静かにして、ごらんになることをお勧めする。凄く生々しく、リアルになる。
魚たちは、群れとしての統一性の元で、・・・・自由に踊っている。軽やかに海と戯れている。
遊び、楽しんでいる。
<2011.07.22 鷹乃学習(たかすなわちわざをならう)>
※2011年度 海の巡礼シリーズ:関連リンク
◎Healing Photograph Gallery1『エルニド巡礼記 @フィリピン』/『パラオ巡礼:2011』/『ボルネオ巡礼:2011』
◎Healing Photograph Article『エルニド巡礼記・余話』
◎ヒーリング・ディスコース『レインボーズ・エンド パラオ巡礼:2011』/『ヒーリング随感3』第3回、第6回、第8回/『ヒーリング随感4』第21回
◎ヒーリング・ダイアリー『ヒーリング・ダイアリー4』